ハタチのわたし Interview

原田 維秀(Yukihide Harada)

青果店原田商店5代目・モデル

青果店原田商店5代目・モデル

1991年12月17日生まれ。香川県観音寺市出身。文化服装学院に在学中にモデル活動を開始し、22歳の時世界4大ファッションショーの一つと言われるミラノコレクションへの出演を機に、ロンドン、パリのコレクションなど海外にも活動を広げる。その後家業を行うため地元香川県に拠点を移し、今もなお八百屋業のさながらモデル活動を行っている。

Y. & SONSのモデルを務めていただいている原田さん。学生時代からモデルとして活躍されていた経験や、業種の異なる世界へ飛び込んだ経緯、現在の目標など様々なお話を伺いました。真っ直ぐな言葉の中に、強い意志を感じさせる原田さんは、一体どんな「ハタチ」だったのでしょうか。

自分の好きなことやワクワクしたことに
時間を注ぎたい

ーーハタチはおよそ13年前。どんなハタチでしたか。

 ハタチの時には既にモデル事務所に入っていましたね。1個上の先輩で事務所に入っていた方と当時仲が良くて、「モデルやってみる?」って声をかけてもらいました。ファッションも勉強していたし、やってみようかなって。興味がないことは全然やろうと思えないタイプなので(笑)。モデルって誰でもできる仕事ではないと思うし、そこに自分ができるならという感じで。学校に通いながらだったので、どこかバイト感覚でやっていたように思います。やめようと思えばいつでもやめられたと思うけど、好きだから続けてきたんじゃないですかね。学校を卒業する頃にはみんな就活していたけど、自分はランウェイを歩いてみたいとも思っていたから、卒業してもそのままモデルを続けました。

ーーファッションの学校へはどういうきっかけで行こうと思ったのですか。

 なんとなく当時好きなことがファッションだったからっていう感覚です。高校が高専で情報処理とかパソコンと睨めっこする時間が多くて、それがすごく性に合わなくて。他のクラスの体育の授業とか出ていましたね(笑)。進学先を考えるタイミングで、「ファッション行くなら東京でしょ!」ってなって文化服装学院に。今の学生さんたちは真剣に将来について考えていると思うんですが、僕はとりあえずやりたいことをやろうって「自分探し」的な感覚が強かったです。

ーー当時ファッションで影響を受けた雑誌とかってありますか。

 雑誌とかは特にないんですけど、地元にブティックやっているお爺さんがいて。すっごい小さい丸メガネの。その人がめちゃめちゃセンスが良かったんです。親戚のお好み焼き屋さんの隣にお店があったから、物心ついた時にはよく行っていて。「センスが良い」って言葉だと抽象的すぎるんだけど、本当にそういう人を見たら圧倒されてその言葉しか出てこないですね。例えば扱っている商品から、店の作り方、その人の家の作り方とか物の買い方、選ぶもののセンスがずば抜けていて、物の活かし方がすぐわかる人。美しいとかかっこいいっていうポイントがわかっている人でした。その人が見ていたものとかをよく横目で見ていたので、「東京でファッションを」っていう選択肢は間違いなくその人の影響が大きいと思う。田舎の中ではとにかく目立っていたし、好きでその仕事をやっている感じがして、僕にとってこうなりたいって思える存在ですね。

ーーモデルになられてからは海外への挑戦もされていますよね。

 海外っていうのはモデルを始めてからですかね、思うようになったのは。元々は海外志向もなかったし、英語も全然喋れなかった。モデルをやっていく中で、自分の目標がしっかり明確になってきて、それが「パリコレとかミラノコレクションのランウェイを歩きたい」とか、「この雑誌に出たい」とかでした。人生1回しかないし、だったら自分の好きなこととかワクワクできることに時間を注ぎたいって思う性格なのと、地に足ついてなくてフィーリングで動いちゃう年頃だったので。日本の事務所に入って、その繋がりでシンガポールに行って。それでその年の暮れにヨーロッパに行きました。初めてミラノコレクションに出たのが23になる年でしたね。確か2013年か2014年の秋冬コレクションで、エンポリオ・アルマーニとジョルジオ・アルマーニが最初でした。日本人だったら大学を卒業して海外に行くっていうのが一般的かもしれないけど、ヨーロッパとかだったら高校生くらいの子もいっぱいいましたね。

ーーランウェイではどんなことを考えながら歩くものなのですか。

 何も考えていないですよ(笑)。みんなそうだと思います(笑)。逆に僕はあんまり覚えてないですね、テンションが上がって。だって自分がやりたくて行って、その仕事を取れると思っていなかったから嬉しくて。楽しんでいました。自分のやりたい仕事が実現するまでは終われないっていう気持ちが強くて、止まっていても変わらないなら動いちゃえってタイプなので、動いてみて結果的に良かった時と、それで失敗した時もありました。

シンプルに考える

ーー海外だと言葉の壁もあったのでは。

 もちろん。英語全然喋れなかったし。でも結局「習うより慣れろ」で。ニューヨークでモデルの面接した時もGoogle翻訳に頼ったこともあります。だから相手にされないこともいっぱいあった。「結局分かってないじゃん、こいつ」って。でもそこで仕事したりすると、自分の言葉で伝えたいって思うじゃないですか。相手にされなかったとしても認めてもらうように頑張ったりする。その過程で少しずつ話せるようになったっていうだけです。僕はシンプルに考えるんですけど、やりたいかやりたくないか、できるかできないかとか。できないならその理由はなんなのかとか、そういうふうに自分を分解していって最終的に残るのってYESかNOになる。その繰り返しでしたね。僕みたいなのって行き当たりばったりに見えるかもしれないですね。当時は特に若かったから怖いものもなくて、行けばどうにかなるだろうって(笑)。

ーー今は八百屋さんのお仕事もされていますよね。

 兼業とか言われますけど、自分としては本業:八百屋、アルバイト:モデル、みたいな感覚です。今モデルの仕事はフリーランスでやっていて、お仕事をいただいた時だけちょこちょこやっています。元々入っていた事務所を辞めて地元香川に帰ってきました。そこから4年くらい経ちます。やっていること自体は変わっていないんですけど、バランスとか軸を変えたっていう方が近いのかも。

ーー八百屋さんでのこだわりは。

 八百屋では、ネットでご注文いただいた方に手紙を添えているんです。例えばAmazonみたいにボタン一つで注文して、それを送るみたいなもののほうがすごく楽なんですけど、箱に詰めるだけって愛がないじゃないですか。お互いにコミュニケーションをとった方が関係性が長く続くチャンスがあると思っているので、「こうしたら美味しいよ」っていう細かいことをいちいち書いています。無機質なものが人間的なものに変わる感覚があって。直接お会いしたことはないけど、3年間くらい定期便を利用してくださっている方もいて、顔はわからないけど書いているうちに仲良くなるんです。僕は手紙で書いて、その方は注文のメールに「去年あれを食べて」と教えてくださる。コミュニケーションがないと成立しないと思います。

ーー「二足の草鞋」「兼業」と注目されることも多いですよね。

 自分がずっと前からその状態なので、今の世の中的にもそれで注目してもらえることが多かったというところもあると思います。でも自分ではモデルと八百屋、どっちも一流だとは思っていなくて。八百屋は代々家族が続けてきたものをやらせてもらっているだけだし、モデルもそれだけで食べていけたら八百屋はやらないと思うし。八百屋は母が社長なので、今まで自分でリスクを負って「これをやりたい」っていうことがなかった。だからモデルの仕事みたいに「自分でこれをやらなきゃ」っていうことを探している段階です。新しいことやってみたいですよね。自分でリスクを背負って決断することを感じながら生活することが重要なのかなって思うので、2号店とかも良いなあと思います。でもまず1号店が流行ってないと2号店は出せないから、1号店を流行らせないと。僕がやることをワクワクするって思ってくれる人がいたら、頑張れますね。

失敗を恐れる前提でやるのが面白くない

ーーとてもエネルギッシュで挑戦し続けている原田さん。ハタチになる方へ届けたい「言葉」はありますか?

 これ…難しいなあ。でも自分の信じたことをやるしかないと思います。むしろ失敗してほしいです。人生一回しかないので、やりたいことがあったらやっていった方がいい。僕は失敗を恐れる前提でやるのが面白くないと思ってしまうタイプなので、むしろ失敗したい。だってそうしなきゃ成功なんてわからないじゃん!と思うから。経済の面とか人間関係とか、人が思う失敗と自分が思う失敗って大分剥離していたりするし。具体的な中身は言わないですけど、もしこれを読んでくれて今はピンとこない人でも、「こういうことだったんだ」「これが失敗ってことだったのか」ってその後色々経験してから感じてもらえたら嬉しいですね。「失敗してほしい」っていう言葉の表面だけでなくて、その中に込められた意味や思いは経験することで感じてもらえたらと思います。

常に新しいものを求めて、高みを目指す原田さん。
自分の人生を自分自身で築き上げていく力強さを感じました。
お話ありがとうございました。