JOURNAL
読みもの
2026.09.02
TOPIC
ゆかたと下駄と、文学のまち
「城崎温泉」
兵庫県豊岡市にある、1300年以上の歴史を誇る城崎温泉。
中心を流れる大谿川を挟んで半径約1km、端から端まで歩いて30分ほどのこのまちには「まち全体が大きな温泉宿」という考え方が根付いています。
「駅が玄関・通りが廊下・旅館がお部屋・外湯が大浴場・お土産物店が売店」
訪れる人々は城崎の正装である「ゆかた」と「下駄」で7つの外湯めぐりを楽しみます。
志賀直哉をはじめとする、数多くの文人・墨客に愛された温泉街は、1925年の大震災から復活を遂げ、古い街並みを残しながら100軒ある旅館やまちの施設、住民が一体となり、訪れたすべてのお客様をまち全体でお迎えしようという想いを大切にしています。
本記事では、城崎温泉が歩んできた歴史をはじめ、まち全体が一体となって守り継ぐあたたかな取り組み、そして旅人を魅了し続けるまちの風景をご紹介いたします。
「宿つなぎ - 逗留の記憶、響く下駄の音 - 」
兵庫県・城崎温泉 / 東京・神楽坂 にて 開催
2026年8月1日(土)から兵庫県・城崎温泉「MMM」、8月7日(金)から東京・神楽坂「YAMATOLab. TOKYO」にて、全国の温泉地で役目を終えたゆかたを新たな形へと使い繋げるプロジェクト「宿つなぎ」にフォーカスしたポップアップイベント「宿つなぎ ―逗留の記憶、響く下駄の音―」を開催いたしました。
城崎温泉の歴史
城崎温泉には、古くから語られている二つの伝説があります。
1300年以上前、傷を負ったコウノトリを癒したとされる「鴻の湯の伝説」と、病に苦しむ人々を救うために道智上人が行った祈願が実り、温泉が湧き出たとされる「開湯の伝説」です。
鴻の湯の伝説
ある時、足を痛めた1羽のコウノトリが、田に降り立ち水に足を浸していました。
数日後に、元気よく飛び回るところを里人が目撃し、不思議に思いその場所を調べると、湯が沸いていました。
そこに湧いていた湯が城崎温泉の始まりとされ、鴻の湯の伝説として、今も語り継がれています。
この逸話から、「鴻の湯」は現在でも不老長寿や幸運を招く湯として親しまれています。
敷地内には、薬師如来を祀っていた「円満寺」の跡地に建つ「鴻の湯神社」があり、この伝説とも深く結び付いています。
開湯の伝説
奈良時代、城崎の地を訪れた高僧・道智上人が目にしたのは、難病に苦しむ人々でした。
彼が「病気で苦しむ人を救いたい」と祈願すると夢の中に白髪の老人が現れ、「上人よ、ここから西南にあるビランの木の下を掘ると汝の求める温泉が見つかるだろう」と言い姿を消しました。道智上人がそのお告げを信じて、今のまんだら湯の場所に庵をむすび、千日間お経を唱え続けたところ、願いが叶い、霊湯が湧き出したそうです。これが「城崎温泉」のはじまりとされています。
この伝説を背景に、城崎温泉には古式入湯作法が伝えられています。道智上人が祀られている温泉寺に参拝して湯杓を授かり、真言を唱えてから入浴するという作法で、実際に体験することができます。
江戸時代には温泉の効果や美しい風景が知れ渡り、京都にも近いことから多くの高僧・文化人が訪れ、次第に旅館が栄えていくようになりました。
古くより文人も多く訪れており、志賀直哉の名作『城の崎にて』でよく知られているほか、幕末には桂小五郎が京の追っ手から逃れて、城崎に潜んでいたともいわれています。
北但大震災とまち並みの復興
1925年(大正14年)の北但大震災により、城崎温泉は大きな被害を受けました。
家屋の倒壊や火災による被害は甚大で、外湯も地蔵湯の一部を除いて倒壊・焼失しました。
温泉寺近くに立つ、西村屋4代目 西村 佐兵衛の像
温泉街では、当時町長だった西村屋4代目 西村佐兵衛が中心となり、復興事業の第一歩として外湯の再建が進められました。旅館や商店、まち並みの整備も進み、1935年(昭和10年)頃には現在の城崎温泉の景観の基礎が形づくられたとされています。北但大震災からの復興は、地域住民による協力と全国から寄せられた支援によって実現した、城崎温泉の歴史における重要な出来事です。
現在の城崎温泉は、この際に再建されたまち並みがもとになっており、現行の法律では新築が難しい「木造三階建て旅館」が立ち並ぶ温泉街が形成されています。復興の際に整備された川辺の柳や太鼓橋も相まって、他に類を見ない情緒ある風情を醸し出すまち並みです。
左:愛宕橋(あたごばし)大谿川にかかる愛宕橋。北但大震災の復興時に建設されたもの。
川の護岸壁に用いられている玄武岩は、震災によって崩れた玄武洞の岩を船で運んできたものです。
右:火伏壁(ひぶせかべ)震災復興の象徴の防火壁。「共存共栄」を掲げる城崎温泉のまちづくりの歴史を後世に伝える役割を担っています。
上:愛宕橋(あたごばし)大谿川にかかる愛宕橋。北但大震災の復興時に建設されたもの。川の護岸壁に用いられている玄武岩は、震災によって崩れた玄武洞の岩を船で運んできたものです。
下:火伏壁(ひぶせかべ)震災復興の象徴の防火壁。「共存共栄」を掲げる城崎温泉のまちづくりの歴史を後世に伝える役割を担っています。
文学のまち
平安時代から歌に詠まれ、文豪 志賀直哉をはじめ多くの文人に愛された湯治場、城崎温泉。
文豪らが惚れ込んだ温泉街は、志賀直哉がはじめて訪れてから100年以上経った今日も、変わることなく訪れる人を癒し続けています。
そんな「文学のまち」城崎で、紡がれている「城崎文学」とその取り組みについてご紹介します。
志賀直哉と城崎温泉
はじめて志賀直哉が城崎温泉を訪れたのは、1913年(大正2年)、彼が30歳のとき。
山手線の電車に跳ねられて負った傷を癒す湯治のためでした。
事故から約二か月後に城崎温泉を訪れた志賀直哉は、10月18日~11月07日までの三週間滞在。
その期間中、偶然目の当たりにした蜂、鼠、いもりなどの小動物の死と、九死に一生を得た自らの生とを重ね合わせて生まれたのが、短編小説「城崎にて」でした。
志賀直哉が当時、実際に逗留した旅館「三木屋」。大正14年の北但大震災によって三木屋は一度倒壊しましたが、昭和2年の再建以降の愛用のお部屋や三木屋当主宛ての直筆ハガキなど、今でも見ることができます。
志賀直哉は「城崎にて」を発表後も、生涯に十数回この地を訪れており、城崎についてこう語っています。
“『温泉はよく澄んで湯治によく、周囲の山々は緑で美しい。
おいしい日本海の魚を毎日食膳に出し、客を楽しませてくれる。
人の心は温かく、木造作りの建物とよく調和している。”
志賀直哉の来訪後、彼の奨めもあってか白樺派の作家たちが城崎温泉を訪れるようになり、多くの作品の中に当地が記されています。
城崎文芸館「KINOBUN」
城崎温泉ゆかりの作家に関する展示を行う城崎文芸館「KINOBUN」
館内では貴重な初版本や原稿の他、様々な表現方法を通して、志賀直哉をはじめとする城崎を訪れた文人たちと街との関わり、城崎温泉の起源から入浴券の変遷、震災からの復興など、城崎の歩みも紹介しています。
また、過去の書き手だけでなく城崎の現在を紹介するようなショップや企画展で、城崎という場所の生み出す可能性をさらに広げる試みも行っています。
出版レーベル『本と温泉』
「本と温泉」は、城崎温泉エリア限定の出版レーベル。
2013年の志賀直哉来湯100年を期に、城崎温泉旅館経営研究会が立ち上げました。
志賀直哉をはじめさまざまな小説家や詩人、歌人、芸術家が訪れた文芸の温泉地として、小説に限らず、詩やエッセイ、紀行、写真集、アートブックなど、多様な表現による出版活動を通じて、城崎温泉にゆかりのある新たな文学・文化を発信し、これから100年先も読まれ続ける新しい本づくりを目指しています。
文学を巡るまちあるき
城崎には志賀直哉、与謝野晶子をはじめとした23の文学碑があり、過去に訪れた人々に思いを馳せめぐる、モデルコースも存在します。また、まちに点在する「歌のポスト」には、誰でも自由に歌を投函できるようになっており、集まった短歌や俳句は毎年選評され、優秀作を投函した人には麦わら細工が贈られています。
街を歩き、思索に耽る。まさに文筆にぴったりの「文学のまち・城崎温泉」
訪れた折には、城崎温泉での思い出をしたためてみてはいかがでしょうか。
