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40歳 成人の日

40歳へのInterview

Yajima Takayuki

矢嶋 孝行株式会社やまと 代表取締役社長 CEO

10代後半から20代、やりたいことに邁進し、30代から着物小売業のやまとに入社。現在社長である矢嶋孝行は、ピュアでいること、わかったような大人にならないこと、理想を理想として追い求めることをずっと続けてきたようだ。誰かを変えようと頑張ることよりも、自分がその模範となって走り続けること。それによって変わる未来を求めて、矢嶋孝行は20歳からの20年間、そしてこれからの20年も日々全力で走り続ける。

20年後の
思い描く姿はあります。
ただ、こうありたいと
掲げながら、
日々走り続けるしかない。

負けを認めざるを得ない人々がいた

―― 20歳当時はどんな感じだったのでしょうか?

いやあ、思いついたことに向かって突っ走る勢いの人でしたね。

―― 例えばどんな?

やってみたいことはすべてやっていました。高校を卒業後、大学には行かず自転車の実業団チームに入り、その後、怪我をし辞めて消防士になりました。消防士を5年やった後は、沖縄に移住してホテルで働くのですが、どれもがその時にやってみたいと思ったことでした。

―― 自転車は何を目標にやっていたんですか?

自転車で全国大会に出ていたりして、オリンピックを夢見ていました。いま思えば無謀な挑戦でしたね。そこまで行ける人たちはもうそもそも違いました。

―― 努力だけではない差を感じたということでしょうか?

もはや努力の仕方すら能力だと思いました。無理という言葉は嫌いだけど負けを認めざるを得ない。40歳になってオリンピックや世界選手権に出ている選手たちが年下になりましたけど、前回大会くらいまでは、「今回出るのは(当時戦った)あいつかぁ」と。

―― 今でもあいつはすごかったもんな、と振り返る感じなんですね。

当時から段違いな人たちでした。自転車競技を辞めた後は、スポーツ全般見れませんでした。悔しくて落ち込んで。最近やっと見れるようになりましたから。

―― 競技を見られるようになるまで20年必要だったという訳ですね?

いまでもあの時のあのレース、こうしてたら勝てていたなと思ったりすることもあります。

―― 未だに消えないものなのですね。

頭の中はいまでも20歳のつもりなのかもしれません。

―― 怪我は自転車レースに復帰できないほどだったのですか?

いや、そこまでではなかったんです。だからその時点で気持ちの面でも負けていたんです。怪我をした時、血が出ているから水分を摂りたいのに水も飲めずという状況だったんですが、同じ頃ニューヨークでは9.11のテロが起きていました。僕がカサカサの口で苦しんでいた時、ツインタワーに飛行機が突っ込む映像が流れてきた。その様子と崩壊した現場で懸命に働く消防士たちを見て、「俺はもうオリンピックには行けないけど、消防士になったら役に立つことができるんじゃないか」と思ったんですよ。

―― 苦しむ自分と苦しむ人々を助ける消防士たちを見たのがきっかけということでしょうか?

中学生の頃、消防士に憧れていたんです。そういう意味でもやりたいと思いました。

理想は理想として追わなくてはいけない

―― 実際に消防士になってみてどうでしたか?

消防士は約5年やりました。はしご隊から救急隊、山岳救助隊をやり、空港対応の消防隊や特別救助隊をやりました。取れる資格は全部取りました。でもそれは悔しさが原動力になっていたんです。実は消防に入って1年目で辞めようと思ったんです。消防士であってもやはり公務員なのだと思い知らされ、大人ってピュアじゃない、いやだと。先輩ともかなり喧嘩していました。「車庫来いよ」みたいな。

―― 血気盛んだったんですね!?

いま思うと、さすがにもうちょっと落ち着けと思います。

―― その頃の自分をどう見ていますか?

いまでも変わっていないんですよ、根の部分では。ただこの20年で大人になって配慮ができるようになった(笑)

―― 他人の考えを認められるようになったということでしょうか?

そうです。ただ自分の考えを貫くぞというのは変わっていない。気遣い、配慮ができるようになった20年ですね。遅すぎる(苦笑)

―― 変わらなくてよかったなと思いますか?

いやー、わからないんです。わからないけど、少なくとも20歳の頃の自分が、いまの自分に出会っていたら世の中の見え方が変わったんじゃないかと思います。こういう大人でもいいんだと。僕は20歳の頃、そういう大人に会えなかったから。

―― 理想と現実に乖離があることを飲み込むのが大人だ、、みたいな感じでしょうか?

それがすごく嫌でした。「あなたたち大人が理想を求めて向かっていかないから理想の世の中にならないんだ。」と思っていましたから。消防の仕事は素晴らしくて、すごい仕事です。ただ公務員としての消防組織は、ドラマでよくある警察と一緒で政治の世界。現場でどうこう言っても変わらなくて、俺はここで何をやればいいんだという気持ちになってしまったんです。それで辞めた後の20代後半は、“旅に出るなら寒い北の地域には行くな”という教えに従って沖縄に行き、ホテルで働きました。

―― その頃は着物の仕事は全く頭になかった感じですか?

ありませんでした。「やまと」という存在はどこかにはありましたけど、当時は自分と関わりのない、いずれどこかで交わるかな?くらい。避けていたわけでもないんです。ただ他にやりたいことがあったからそっちに邁進してきただけ。自分が自分でやりたいこと、世の中にインパクトあることは何かを考えて、出た答えに従ってきただけなので。

―― 未来よりも、常に「今をどうするか」を考えながらやってこられたんですね?

この立場になったいまでこそ遠い先を考えるようになりましたけど、当時は目の前のことでしたね。

どうしたらひとりでも多くの人が喜んでくれるか

―― 自分の人生の道筋が見えてきたと思ったのはいつ頃ですか?

いまもってまったく見えてないですよ。目の前に必死ですもん。もちろん企業として10年後、20年後の思い描く姿はあります。ただ、こうありたいと掲げながら、日々走り続けるしかない。

―― そもそも着物のことを考えていなかったところから、人生をかけてやる仕事としてやまとに入ったと思います。腹を括った瞬間はどこだったのでしょう?

やまとに足を踏み入れた以上は責任があるなという感覚です。やはり創業家の人間であるというのは重いですよね。その重さの理由ははっきり言えないですけど、あります。

―― その重さを実感したのは入社を決めた瞬間からですか?

周囲の人が思ってるほど、この会社を継ぐことが重いかどうか考えていないかもしれません。ただ、次の世代に繋がなきゃいけないという意識はあります。創業家であるうちの息子かどうかはともかく、誰かにバトンを繋げなければという意識は強い。

―― 自分が継がない選択肢もあったと思うのですが、なぜやまとで着物をやろうと決めたのでしょうか?

自分の判断で「ひとりでも多くの人が喜んでくれるかどうか」が判断の軸にあります。自分がやまとに入ることが誰のためになるのかわからなくて、先々代から会社を見てくれている当時の社外取締役、奧野善彦先生に聞いたんです。いろいろ話して下さったのですが、私が入ることがやまとのためになるのか、やっぱりわからなかった。だから最後にひとつだけ聞いたんです。「私はこの会社に入った方が、入らなかったときよりも多くの人を喜ばせたり、しあわせにしたりできるということですか?」って。そしたら「そうや」と。「そうですか。わかりました」と答えました。

―― わからないから、最後に自分が判断できる基準で教えてもらったんですね?

先生が「お前が入った方が絶対みんなが幸せになる」とまで言うんだったら、「もうわかった!」と。少なくとも私の姉二人は喜びました。社員はわかりません。結果としてどう感じてもらえるかとても気がかりでした。それが29歳の時。それから30歳の1月22日に入社したんです。

違和感を違和感として
終わらせるのではなく、
きっかけとして
次のステップに
つなげていきたい。

変化のための違和感を大切に

―― 着物についてもまったく知識がないところから始まっているわけですよね。貫いてきたやりたいことをやる姿勢はこれまでと変わらなかったですか?

入った頃も、自分の夢やビジョンはありましたけど、薄っぺらかったと思います。入社当時から何より会社の存続ということがまずありました。そのためにも時間のかかる社員のみんなとのコミュニケーションや企業組織の風土を感じ取ることを、まずやらなきゃと思っていました。

―― 長く働いてくれている人もたくさんいるわけですよね?

創業家の人間が来ていきなりこれをやりたいと語り始めるのって、海賊船がやってきて船を乗っ取られたみたいな感じですよね。それはできない。いま自分が社長になってからは、ビジョンを掲げましたけど、入社当時、自分の乗っている船の特徴や能力がわかっていないのに向かいたい方向だけ語っても無責任。いま掲げているビジョンは、この船の能力なら頑張ればいけると思ってるから表明しているので。それで最初の頃、特に大事にしたのは人と話すことでした。ベテランの方々の話も聞きながら、当時の経営陣があまり耳を傾けてこなかった20代の入社間もない人たちの話も聞いて回りました。

―― 着物をめぐるこれからのことは、若い人に聞かなくちゃと思ったんですね?

そもそも21世紀の現代において、なぜ着物に携わろうと思ったのか? そこに興味がありました。そして話を聞けば、一人一人素晴らしい夢を持って入ってくれていて、その想いもいまのやまとのビジョンに繋がっています。あともうひとつ、企業風土の問題点を把握するためには、新入社員の感じる疑問が一番わかりやすいと思ったんですよ。「この会社のおかしいと思うところどこ?」って。外の世界から来た人はこの会社のどこに違和感があるのか。その違和感を大事にしつつ、解消すべきものは解消して、伸ばした方がいい違和感は残そうとしてきました。いまでもまだどんどん出てきます。違和感を違和感として終わらせるのではなく、きっかけとして次のステップにつなげていきたい。

業界を変えようという
思いはあまりなくて、
要は僕らが理想的な
やり方でしっかり結果を
出せば、続く企業は
でてくると思うんです。

“業界”を変えるのではなく、変わるように先に行く

―― 矢嶋さん自身、着物業界においては新人だったわけですが、自分の違和感については?

着物という文化とか着物そのものにはまったく違和感はありません。どこもそうだと思いますけど、“業界”には違和感があります。着物はこうあるべきという人の言いたいこともわかります。だから僕らは、僕らが思っている着物のあり方を実践して、意見すればいいだけ。

―― 業界を変えないといけないという思いは強いですか?

業界を変えようという思いはあまりなくて、要は僕らが理想的なやり方でしっかり結果を出せば、続く企業はでてくると思うんです。生意気なことを言いますが、この業界はこれまで理想的なやり方で結果を出したことがないんですよ。昨年着物業界で大きなニュースがありましたが、不正が起きる業界は、そうしないと利益が出ないと思う人が多いからやってしまう。僕らは僕らとしてちゃんと売り上げを上げるし、結果を出せるという証明をしたら、この業界は変わるはずです。僕らがやっていることはそんなに特別なことじゃないですから。

―― それはシステム的な話ですか?

システムというか、考え方だけ。しっかりとしたブレない理念、ビジョンを掲げること。それは綺麗事ではないことを、全社員に伝わるまでずっと伝え続け、理念やビジョンへの歩みを止めないこと。そうすることで、理念やビジョンが目の前に見える形として現れる。「ああ、そういうことだったのか未来は」と社員一人一人が実感する。そして、それが輪となって、結果お客様もその輪の中に入ってくださるようになる。

―― でも既存の業界からは特殊なことをやっていると思われているわけですよね?

そう思います。業界が変わらなきゃいけないと言い続けて変えようとするよりも、結果が出ないと思ってる人たちには、結果が出ることを証明すればいいだけなんですよね。「やまとが理想的な形で結果を出せたなら、うちもやまとみたいにやってみよう」となるくらいの影響力を、うちは持っているはずなんです。すごく偉そうですね……。

―― 明確な筋道を立て、みんなの力を信じて変えようとする姿勢は、やまとの社員さんにとっては嬉しいのではないでしょうか?

ブレられないですよね。瞬間的に利益を出すだけの方法ならあるんですよ。どこの企業であっても無理やりやれば利益は出せるはずです。従業員の給料を減らして、無理やり販売すればいいから。でもそれは人としてやっちゃいけない。人間そもそも不正をやりたいわけじゃないんですよ。追い込まれてるわけです。特にいまはコロナで苦しいから安易な方法に走りたくなるのはわかる。でも、追い込まれたときに、それでも結果を出せるという証明をして、上から目線で大変恐縮ですが、何かできるから一緒にやろうよと言えるところまでいけたらと思っています。自分のことをやり通した上で、ノウハウのすべてではないけれど、僕たちがこういうことをやってきたということは伝えることはできます。何度も言いますが、難しいことはやっていないので。

成人式にはスーツだった

―― ちなみに成人式には出ましたか?

参加しましたよ。スーツで(笑)。当時の僕は着物のことをまったく気にしていなかったので。父とは中学生の頃から一緒に住んでなかったんですよ。だから着物が用意されているということもなくて。

―― 成人の方々に着物のことを言いながら、お前は着てないのか的なオチがあるんですね?

着物を着なきゃいけないと思っちゃ駄目だと思うんです。成人式であっても。僕自身毎日着物は着ないですし。ただ着物を着たらおもしろいよということは伝えたい。

―― 着物を着るというのは、装うことの中でどういう位置やあり方になるのでしょうか?

きれいな言葉で答えれば答えるほど、着物を着ていない方との距離が離れる気がして難しいのですが、コーヒーを飲まない人が「コーヒーがあれば、豊かな上質な朝を迎えられる」と魅力を語られても、「そうですか」という気持ちで終わってしまいますよね。いまの私や、多くのやまと社員にとっては、生活に着物があることが当たり前になっていますが、元々着物ユーザーではなかった私が言えるのは、「きっとコーヒーも着物も、なければないで生きていける。でも、あったらちょっとうれしいものである」ということ。一度コーヒーを魅力的だと感じたら、それがなくなってしまうことは悲しいですよね。コーヒーという新たなよろこびが生活に増えることは、より豊かになるということだと思うんです。つまり、着物を着るという選択肢が増えることで、ありがちな言葉ではありますが、くらしが豊かになるんだと思っています。防寒や動きやすさでは洋服には敵わない。けれど、やはりそこには情緒や洋服にないチャレンジ要素があると思っています。

―― チャレンジ要素とはどんなことでしょうか?

チャレンジ要素とは、着物の着方はアップデートしていくことができるということです。正統な着方と思われているものは、実は歴史が浅いんです。着物は戦後からの印象が強い。着物が生活着であった時代は、それはそれはとても自由に着ていました。昔の写真を見たら、とても着崩れている。いまは、「着物は着崩れてはいけない」という固定観念に縛られている人が多い印象があります。縛られたままでは、着る人が主人公になっていない気がしています。文化や伝統は変化していくものです。それを、現代の私たちがどう変化させていくか。いわゆる戦後からの正統的な着方をすることもあれば、洋服と合わせるということがあってもいい。チャレンジは、過去に敬意を払いつつ、いまを生きる人が、未来、着物や日本の文化をどうしていきたいか? それを考えることに繋がっていく気がします。

成人の方々へのMessage

“ようこそ、大人へ。私たち大人は、今よりもちょっとでも面白くて、楽しい世の中にしたいと思っている。たくさんの新しい、面白いモノも生み出してきたし、世界との距離は格段に近くなった。けれども、いまだに世界で紛争は行われ、地球環境は破壊され、そして私たちが住むこの国は、巨額の負債を抱えてしまっている。
どうしたものか。悔しいけれど、子供に胸を張れる世の中にすることが出来ていない。一人のヒーローが現れて、全てを解決するなんていう映画のようなことは起きない。
今日より明日、明日より明後日が面白く、楽しくなるよう一人一人が手を取り合って奮闘する。皆さんが大人になってくれたことは私たち大人にとっての希望です。世の中を面白く、楽しくする仲間が増えた。これから共に、歩めることに心から感謝します。ありがとう、大人へ。”

Yajima Takayuki

矢嶋 孝行株式会社やまと 代表取締役社長 CEO

1982年東京都生まれ。消防士、ホテルマンを経て、2013年(株)やまとに入社、取締役就任。事業創造本部長として<Y. & SONS><THE YARD>など新業態のディレクション、<KIMONO by NADESHIKO>のリブランディングを手掛ける。2019年4月より現職。4代目社長就任後、企業ビジョンとして「“きもの”でエキサイティングな世の中をつくる」を掲げ、きものを通して様々なチャレンジを続けている。

40歳 成人の日

40歳へのInterview

Yajima Takayuki

矢嶋 孝行株式会社やまと 代表取締役社長 CEO

10代後半から20代、やりたいことに邁進し、30代から着物小売業のやまとに入社。現在社長である矢嶋孝行は、ピュアでいること、わかったような大人にならないこと、理想を理想として追い求めることをずっと続けてきたようだ。誰かを変えようと頑張ることよりも、自分がその模範となって走り続けること。それによって変わる未来を求めて、矢嶋孝行は20歳からの20年間、そしてこれからの20年も日々全力で走り続ける。

20年後の思い描く姿はあります。ただ、こうありたいと掲げながら、日々走り続けるしかない。

負けを認めざるを得ない人々がいた

―― 20歳当時はどんな感じだったのでしょうか?

いやあ、思いついたことに向かって突っ走る勢いの人でしたね。

―― 例えばどんな?

やってみたいことはすべてやっていました。高校を卒業後、大学には行かず自転車の実業団チームに入り、その後、怪我をし辞めて消防士になりました。消防士を5年やった後は、沖縄に移住してホテルで働くのですが、どれもがその時にやってみたいと思ったことでした。

―― 自転車は何を目標にやっていたんですか?

自転車で全国大会に出ていたりして、オリンピックを夢見ていました。いま思えば無謀な挑戦でしたね。そこまで行ける人たちはもうそもそも違いました。

―― 努力だけではない差を感じたということでしょうか?

もはや努力の仕方すら能力だと思いました。無理という言葉は嫌いだけど負けを認めざるを得ない。40歳になってオリンピックや世界選手権に出ている選手たちが年下になりましたけど、前回大会くらいまでは、「今回出るのは(当時戦った)あいつかぁ」と。

―― 今でもあいつはすごかったもんな、と振り返る感じなんですね。

当時から段違いな人たちでした。自転車競技を辞めた後は、スポーツ全般見れませんでした。悔しくて落ち込んで。最近やっと見れるようになりましたから。

―― 競技を見られるようになるまで20年必要だったという訳ですね?

いまでもあの時のあのレース、こうしてたら勝てていたなと思ったりすることもあります。

―― 未だに消えないものなのですね。

頭の中はいまでも20歳のつもりなのかもしれません。

―― 怪我は自転車レースに復帰できないほどだったのですか?

いや、そこまでではなかったんです。だからその時点で気持ちの面でも負けていたんです。怪我をした時、血が出ているから水分を摂りたいのに水も飲めずという状況だったんですが、同じ頃ニューヨークでは9.11のテロが起きていました。僕がカサカサの口で苦しんでいた時、ツインタワーに飛行機が突っ込む映像が流れてきた。その様子と崩壊した現場で懸命に働く消防士たちを見て、「俺はもうオリンピックには行けないけど、消防士になったら役に立つことができるんじゃないか」と思ったんですよ。

―― 苦しむ自分と苦しむ人々を助ける消防士たちを見たのがきっかけということでしょうか?

中学生の頃、消防士に憧れていたんです。そういう意味でもやりたいと思いました。

理想は理想として
追わなくてはいけない

―― 実際に消防士になってみてどうでしたか?

消防士は約5年やりました。はしご隊から救急隊、山岳救助隊をやり、空港対応の消防隊や特別救助隊をやりました。取れる資格は全部取りました。でもそれは悔しさが原動力になっていたんです。実は消防に入って1年目で辞めようと思ったんです。消防士であってもやはり公務員なのだと思い知らされ、大人ってピュアじゃない、いやだと。先輩ともかなり喧嘩していました。「車庫来いよ」みたいな。

―― 血気盛んだったんですね!?

いま思うと、さすがにもうちょっと落ち着けと思います。

―― その頃の自分をどう見ていますか?

いまでも変わっていないんですよ、根の部分では。ただこの20年で大人になって配慮ができるようになった(笑)

―― 他人の考えを認められるようになったということでしょうか?

そうです。ただ自分の考えを貫くぞというのは変わっていない。気遣い、配慮ができるようになった20年ですね。遅すぎる(苦笑)

―― 変わらなくてよかったなと思いますか?

いやー、わからないんです。わからないけど、少なくとも20歳の頃の自分が、いまの自分に出会っていたら世の中の見え方が変わったんじゃないかと思います。こういう大人でもいいんだと。僕は20歳の頃、そういう大人に会えなかったから。

―― 理想と現実に乖離があることを飲み込むのが大人だ、、みたいな感じでしょうか?

それがすごく嫌でした。「あなたたち大人が理想を求めて向かっていかないから理想の世の中にならないんだ。」と思っていましたから。消防の仕事は素晴らしくて、すごい仕事です。ただ公務員としての消防組織は、ドラマでよくある警察と一緒で政治の世界。現場でどうこう言っても変わらなくて、俺はここで何をやればいいんだという気持ちになってしまったんです。それで辞めた後の20代後半は、“旅に出るなら寒い北の地域には行くな”という教えに従って沖縄に行き、ホテルで働きました。

―― その頃は着物の仕事は全く頭になかった感じですか?

ありませんでした。「やまと」という存在はどこかにはありましたけど、当時は自分と関わりのない、いずれどこかで交わるかな?くらい。避けていたわけでもないんです。ただ他にやりたいことがあったからそっちに邁進してきただけ。自分が自分でやりたいこと、世の中にインパクトあることは何かを考えて、出た答えに従ってきただけなので。

―― 未来よりも、常に「今をどうするか」を考えながらやってこられたんですね?

この立場になったいまでこそ遠い先を考えるようになりましたけど、当時は目の前のことでしたね。

どうしたらひとりでも多くの人が
喜んでくれるか

―― 自分の人生の道筋が見えてきたと思ったのはいつ頃ですか?

いまもってまったく見えてないですよ。目の前に必死ですもん。もちろん企業として10年後、20年後の思い描く姿はあります。ただ、こうありたいと掲げながら、日々走り続けるしかない。

―― そもそも着物のことを考えていなかったところから、人生をかけてやる仕事としてやまとに入ったと思います。腹を括った瞬間はどこだったのでしょう?

やまとに足を踏み入れた以上は責任があるなという感覚です。やはり創業家の人間であるというのは重いですよね。その重さの理由ははっきり言えないですけど、あります。

―― その重さを実感したのは入社を決めた瞬間からですか?

周囲の人が思ってるほど、この会社を継ぐことが重いかどうか考えていないかもしれません。ただ、次の世代に繋がなきゃいけないという意識はあります。創業家であるうちの息子かどうかはともかく、誰かにバトンを繋げなければという意識は強い。

―― 自分が継がない選択肢もあったと思うのですが、なぜやまとで着物をやろうと決めたのでしょうか?

自分の判断で「ひとりでも多くの人が喜んでくれるかどうか」が判断の軸にあります。自分がやまとに入ることが誰のためになるのかわからなくて、先々代から会社を見てくれている当時の社外取締役、奧野善彦先生に聞いたんです。いろいろ話して下さったのですが、私が入ることがやまとのためになるのか、やっぱりわからなかった。だから最後にひとつだけ聞いたんです。「私はこの会社に入った方が、入らなかったときよりも多くの人を喜ばせたり、しあわせにしたりできるということですか?」って。そしたら「そうや」と。「そうですか。わかりました」と答えました。

―― わからないから、最後に自分が判断できる基準で教えてもらったんですね?

先生が「お前が入った方が絶対みんなが幸せになる」とまで言うんだったら、「もうわかった!」と。少なくとも私の姉二人は喜びました。社員はわかりません。結果としてどう感じてもらえるかとても気がかりでした。それが29歳の時。それから30歳の1月22日に入社したんです。

違和感を違和感として
終わらせるのではなく、
きっかけとして次のステップにつなげていきたい。

変化のための違和感を大切に

―― 着物についてもまったく知識がないところから始まっているわけですよね。貫いてきたやりたいことをやる姿勢はこれまでと変わらなかったですか?

入った頃も、自分の夢やビジョンはありましたけど、薄っぺらかったと思います。入社当時から何より会社の存続ということがまずありました。そのためにも時間のかかる社員のみんなとのコミュニケーションや企業組織の風土を感じ取ることを、まずやらなきゃと思っていました。

―― 長く働いてくれている人もたくさんいるわけですよね?

創業家の人間が来ていきなりこれをやりたいと語り始めるのって、海賊船がやってきて船を乗っ取られたみたいな感じですよね。それはできない。いま自分が社長になってからは、ビジョンを掲げましたけど、入社当時、自分の乗っている船の特徴や能力がわかっていないのに向かいたい方向だけ語っても無責任。いま掲げているビジョンは、この船の能力なら頑張ればいけると思ってるから表明しているので。それで最初の頃、特に大事にしたのは人と話すことでした。ベテランの方々の話も聞きながら、当時の経営陣があまり耳を傾けてこなかった20代の入社間もない人たちの話も聞いて回りました。

―― 着物をめぐるこれからのことは、若い人に聞かなくちゃと思ったんですね?

そもそも21世紀の現代において、なぜ着物に携わろうと思ったのか? そこに興味がありました。そして話を聞けば、一人一人素晴らしい夢を持って入ってくれていて、その想いもいまのやまとのビジョンに繋がっています。あともうひとつ、企業風土の問題点を把握するためには、新入社員の感じる疑問が一番わかりやすいと思ったんですよ。「この会社のおかしいと思うところどこ?」って。外の世界から来た人はこの会社のどこに違和感があるのか。その違和感を大事にしつつ、解消すべきものは解消して、伸ばした方がいい違和感は残そうとしてきました。いまでもまだどんどん出てきます。違和感を違和感として終わらせるのではなく、きっかけとして次のステップにつなげていきたい。

業界を変えようという思いはあまりなくて、要は僕らが理想的なやり方でしっかり結果を出せば、続く企業はでてくると思うんです。

“業界”を変えるのではなく、
変わるように先に行く

―― 矢嶋さん自身、着物業界においては新人だったわけですが、自分の違和感については?

着物という文化とか着物そのものにはまったく違和感はありません。どこもそうだと思いますけど、“業界”には違和感があります。着物はこうあるべきという人の言いたいこともわかります。だから僕らは、僕らが思っている着物のあり方を実践して、意見すればいいだけ。

―― 業界を変えないといけないという思いは強いですか?

業界を変えようという思いはあまりなくて、要は僕らが理想的なやり方でしっかり結果を出せば、続く企業はでてくると思うんです。生意気なことを言いますが、この業界はこれまで理想的なやり方で結果を出したことがないんですよ。昨年着物業界で大きなニュースがありましたが、不正が起きる業界は、そうしないと利益が出ないと思う人が多いからやってしまう。僕らは僕らとしてちゃんと売り上げを上げるし、結果を出せるという証明をしたら、この業界は変わるはずです。僕らがやっていることはそんなに特別なことじゃないですから。

―― それはシステム的な話ですか?

システムというか、考え方だけ。しっかりとしたブレない理念、ビジョンを掲げること。それは綺麗事ではないことを、全社員に伝わるまでずっと伝え続け、理念やビジョンへの歩みを止めないこと。そうすることで、理念やビジョンが目の前に見える形として現れる。「ああ、そういうことだったのか未来は」と社員一人一人が実感する。そして、それが輪となって、結果お客様もその輪の中に入ってくださるようになる。

―― でも既存の業界からは特殊なことをやっていると思われているわけですよね?

そう思います。業界が変わらなきゃいけないと言い続けて変えようとするよりも、結果が出ないと思ってる人たちには、結果が出ることを証明すればいいだけなんですよね。「やまとが理想的な形で結果を出せたなら、うちもやまとみたいにやってみよう」となるくらいの影響力を、うちは持っているはずなんです。すごく偉そうですね……。

―― 明確な筋道を立て、みんなの力を信じて変えようとする姿勢は、やまとの社員さんにとっては嬉しいのではないでしょうか?

ブレられないですよね。瞬間的に利益を出すだけの方法ならあるんですよ。どこの企業であっても無理やりやれば利益は出せるはずです。従業員の給料を減らして、無理やり販売すればいいから。でもそれは人としてやっちゃいけない。人間そもそも不正をやりたいわけじゃないんですよ。追い込まれてるわけです。特にいまはコロナで苦しいから安易な方法に走りたくなるのはわかる。でも、追い込まれたときに、それでも結果を出せるという証明をして、上から目線で大変恐縮ですが、何かできるから一緒にやろうよと言えるところまでいけたらと思っています。自分のことをやり通した上で、ノウハウのすべてではないけれど、僕たちがこういうことをやってきたということは伝えることはできます。何度も言いますが、難しいことはやっていないので。

成人式にはスーツだった

―― ちなみに成人式には出ましたか?

参加しましたよ。スーツで(笑)。当時の僕は着物のことをまったく気にしていなかったので。父とは中学生の頃から一緒に住んでなかったんですよ。だから着物が用意されているということもなくて。

―― 成人の方々に着物のことを言いながら、お前は着てないのか的なオチがあるんですね?

着物を着なきゃいけないと思っちゃ駄目だと思うんです。成人式であっても。僕自身毎日着物は着ないですし。ただ着物を着たらおもしろいよということは伝えたい。

―― 着物を着るというのは、装うことの中でどういう位置やあり方になるのでしょうか?

きれいな言葉で答えれば答えるほど、着物を着ていない方との距離が離れる気がして難しいのですが、コーヒーを飲まない人が「コーヒーがあれば、豊かな上質な朝を迎えられる」と魅力を語られても、「そうですか」という気持ちで終わってしまいますよね。いまの私や、多くのやまと社員にとっては、生活に着物があることが当たり前になっていますが、元々着物ユーザーではなかった私が言えるのは、「きっとコーヒーも着物も、なければないで生きていける。でも、あったらちょっとうれしいものである」ということ。一度コーヒーを魅力的だと感じたら、それがなくなってしまうことは悲しいですよね。コーヒーという新たなよろこびが生活に増えることは、より豊かになるということだと思うんです。つまり、着物を着るという選択肢が増えることで、ありがちな言葉ではありますが、くらしが豊かになるんだと思っています。防寒や動きやすさでは洋服には敵わない。けれど、やはりそこには情緒や洋服にないチャレンジ要素があると思っています。

―― チャレンジ要素とはどんなことでしょうか?

チャレンジ要素とは、着物の着方はアップデートしていくことができるということです。正統な着方と思われているものは、実は歴史が浅いんです。着物は戦後からの印象が強い。着物が生活着であった時代は、それはそれはとても自由に着ていました。昔の写真を見たら、とても着崩れている。いまは、「着物は着崩れてはいけない」という固定観念に縛られている人が多い印象があります。縛られたままでは、着る人が主人公になっていない気がしています。文化や伝統は変化していくものです。それを、現代の私たちがどう変化させていくか。いわゆる戦後からの正統的な着方をすることもあれば、洋服と合わせるということがあってもいい。チャレンジは、過去に敬意を払いつつ、いまを生きる人が、未来、着物や日本の文化をどうしていきたいか? それを考えることに繋がっていく気がします。

成人の方々へのMessage

“ようこそ、大人へ。私たち大人は、今よりもちょっとでも面白くて、楽しい世の中にしたいと思っている。たくさんの新しい、面白いモノも生み出してきたし、世界との距離は格段に近くなった。けれども、いまだに世界で紛争は行われ、地球環境は破壊され、そして私たちが住むこの国は、巨額の負債を抱えてしまっている。
どうしたものか。悔しいけれど、子供に胸を張れる世の中にすることが出来ていない。一人のヒーローが現れて、全てを解決するなんていう映画のようなことは起きない。
今日より明日、明日より明後日が面白く、楽しくなるよう一人一人が手を取り合って奮闘する。皆さんが大人になってくれたことは私たち大人にとっての希望です。世の中を面白く、楽しくする仲間が増えた。これから共に、歩めることに心から感謝します。ありがとう、大人へ。”

Yajima Takayuki

矢嶋 孝行株式会社やまと 代表取締役社長 CEO

1982年東京都生まれ。消防士、ホテルマンを経て、2013年(株)やまとに入社、取締役就任。事業創造本部長として<Y. & SONS><THE YARD>など新業態のディレクション、<KIMONO by NADESHIKO>のリブランディングを手掛ける。2019年4月より現職。4代目社長就任後、企業ビジョンとして「“きもの”でエキサイティングな世の中をつくる」を掲げ、きものを通して様々なチャレンジを続けている。