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40歳 成人の日

40歳へのInterview

Tamaki Roy

環 ROYラッパー

ラッパー環ROYさんはヒップホップ、ラッパーの界隈においても、特殊な存在感を発揮し続けている。フリースタイルバトルの現場からはじまり、日本語を突き詰め和歌を歌詞に取り入れるなど様々な表現を実践し、ダンサーとのパフォーマンスやインスタレーション、最近では絵本まで書いている。そうした多様で多彩な活動とは裏腹に、環さんはいつも道を踏み外してしまうのではないかという不安が常にあるという。40歳でようやく大人を意識しだしたというラッパーのこれまでの20年。

マイノリティとして社会に属するために、自分が好きなヒップホップ、ラップで生計を立てられたらいいなと思っていました。というかそれしかないって感じでした。

洋服にはないムード

―― 着物はこれまで着たことはありますか?

2018年に、茨城県の結城市でやっている「結の音」というイベントに出た時、名産である結城紬を着させてもらってパフォーマンスをやったことがあります。それくらいですね。この前、自分の七五三の写真を見たら、洋服で白タイツを履いていました。

―― 今日、着てみていかがですか? 撮影で動いたりもされていましたが。

大股で動けないので、足の動きのストロークはでないですよね。時代劇で走る時に裾を捲って走る描写がありますけど、日常着としてはそこに不便さがあるようにも見える服が、今まで変化せずにきた理由が何だろうとか考えていました。

―― 捲らないと走れない不便さを不思議に感じたんですね?

階段の一段飛ばしも難しいですし、きっと何か理由があるんでしょうね。一方で裾がパンツのようにまとまらず布として広いままなので、動いた時に面ができる。それはやっぱり洋服にないムード、印象がありました。

40歳になって大人になった

―― 成人式は出ましたか?

出てません。セレモニー的なものに全然興味が持てなくて。

―― 20歳に何か区切りのようなものは感じますか?

あまり年齢で区切ることはないかもしれません。

―― 18歳で進学のために地元仙台を出て、千葉に住んでいたんですよね?

それも進学で、という感じです。2021年で40歳になって、40歳になったなーと思ったから、この頃は年齢を意識してる部分はありますね。

―― では、大人になったなというタイミングはありましたか?

むしろそれが40歳くらいからかも。

―― 20歳の頃はどんな時期でした?

学生でした。学校に行く以外は、ブックオフで100円で売っている純文学のクラシックを読んだり、レンタルビデオ屋でいろんな映画を借りたり、そういうことで満足できるタイプでした。それと、趣味でDJみたいなことをしていたので、ときどき東京に行ってレコードを買ったり。

社会に馴染めないときの選択肢としてのラップ

―― 音楽や本、映画の日々だったんですね。その頃、ラップはまだやっていなかったんですか?

20歳頃から、ラップのリリックを書き始めたというか、リズムに合わせて何か言うことを始めましたね。

―― ラッパーになろうと思っていたんですか?

ラッパーになりたいと思っていました。17歳で、 Zeebraのファーストアルバムを発売日に買いに行くような高校生で、当時は曲を聴いて暗唱していました。いま昔のことを考えたんですが、ラッパーになりたいと思ってはいたけど、歌詞は書いてなかったですね。なんでだろう。当時は、DJにも同じように憧れていたのもあるし、詞を書くことに気恥ずかしさを感じていたのかもしれません。

―― ヒップホップの世界には独特の社会やルールがありますよね?

最初は何もわからないから暗中模索でした。とりあえずやってみる、みたいな。

―― ラップを始めた20歳の頃は、これからの自分をどう思い描いていました?

会社員は無理というか、社会に馴染めない感覚が中学生ぐらいからすごく強くて。社会に馴染めないのにどうやって生きていこうかなあとしか思ってなかったです。

―― 社会への馴染めなさは、いろいろな反応の仕方や出方があると思います。ヒップホップはそういう手段でもあったのでしょうか?

いわゆるマジョリティとして社会に属することは無理だと思っていて、マイノリティとして社会に属するために、自分が好きなヒップホップ、ラップで生計を立てられたらいいなと思っていました。というかそれしかないって感じでした。そのための暗中模索で、いま思うとガムシャラでした。

―― 2001年当時、インターネットもまだ浸透していない時期です。どんな活動の仕方をされていたんですか?

同じ趣味を持つ人が集まる場所、例えばクラブとかに出向いて、仲間をみつけて関係を作って交流を深めて、それによって居場所を見つけていきました。要するにクラブに行って、人と会って、仲間を増やして、仕事を振ってもらって、それを増やしてきた、ということだと思います。失敗しても無限にやり続ける。ひたすらチャンスに出会うために動くって感じです。

20代も、30代もずっときつかった。バイトしながら「いつホームレスになるかわからない」くらいの気持ちでやっていました。

いつホームレスになるかわからない

―― 社会に属することの難しさを感じていた中で、大学を卒業して今までの約20年間を、20代、30代と分けると、それぞれどんな10年間でしたか?

20代も、30代もずっときつかった。バイトしながら「いつホームレスになるかわからない」くらいの気持ちでやっていました。28歳までにラップで生計が立たなかったら辞めなきゃいけない、みたいなことはぼんやり考えていました。実際にラップの収入だけで生きられるようになったのが27歳頃でした。

―― 目標があって、そこへの積み重ねで生計が立つようになったんですね。達成感はありましたか?

達成感はなかったですね。シームレスというか、バイトで外に出なくて良くなったというだけで、ライブや音源制作に呼ばれなかったら仕事がなくなって、戻る可能性もあるわけです。それは今も変わらない感覚としてあります。

―― 常に不安とともにあったし、あるということなんですね。

ですね。

―― その不安を解消するために、ラップをやめて安定的な仕事をするという選択肢はなかったんでしょうか?

ないですね。できないです。資本主義の構造によって生まれる矛盾は、絶やすことができないじゃないですか。組織の中に入れば入るだけ矛盾にさらされる機会が多くなるし、そこを我慢して耐えるというのが無理だと思います。

―― 富む人がさらに富み、格差が拡大する状況もありますよね。

哲学者のマイケル・サンデルも『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を書いているように、実力も運のうち。なんなら全部が運だと思っています。小さい頃から、そういうことにすごく興味がありました。社会には王侯貴族や庶民、お金持ちや貧乏人、一般人や政治家、官僚、そういうものが厳然と存在している。それはどういうことなのか、確認しながら生きてきました。

―― 構造から生まれるそれぞれの社会的立場は運にすぎないことを自覚するべきだと考えているんですね?

そうありたいです。

―― 20歳からの20年という時間で、基本的な考え方は変わっていないんですね?

道を踏み外していたかもなと思うし、悪いことをしてしまう人の気持ちもわかるところがあります。今の妻に会って結婚してなかったら、音楽で食えていたとしても、精神的に病んでいたと思います。

―― それは出会えたことに感謝ですね。お子さんが生まれていかがですか?

36歳で結婚して、いま4歳と1歳の子がいます。子どもができたことは大きかったと思います。自分に不安がある中で子どもが生まれて責任の重さを感じると同時に、嬉しいというか、無垢な存在に前向きなエネルギーをもらっています。子どもを対象にしたラップもしているし、絵本を書いたり、翻訳したりもしています。

良くなっていく、いかないという成長史観がなくなってきました。その時々で自分の中に課題を見つけて取り組む、それを続けていければよいと思うようになっています。

音楽をメディウムにしたアートをやっている。

―― ライブだけでなく、ダンサー島地保武さんと「ありか」などパフォーマンスの活動も行っていますね。そういう活動のフィールドが増えていく、表現の可能性の進化についてはどう考えていますか?

良くなっていく、いかないという成長史観がなくなってきました。その時々で自分の中に課題を見つけて取り組む、それを続けていければよいと思うようになっています。最近は、作詞作曲をすべて一人でやるようになってきましたし、録音や整音も自身でやれるように研究しているところです。音楽制作において、自身で出来る領域を広げていき、創作物の純度をあげていくのが直近の気分です。音楽をメディウムにしたアートをやっているという気持ちになってきています。

―― そうした変化はその時々に起こることであって、どうなっていくか分からない部分がありますよね?

これまでは、専門技術を持つ他者の作った音楽、要はビートメイカーのビートにラップを載せる形式での楽曲制作がほとんどでした。その場合、自由にできるのが自分の声と歌詞だけなので、どうしても歌詞が先鋭化していくような感覚がありました。自分でビートを作るようになってからは、意識の展開がサウンドのほうにも流れていく感じがして、言葉の操作に対する意識もかなり変化しています。また録音や整音についての研究を通して音響についての理解が深まっていくことを楽しんでいます。

―― 言葉の先鋭化は日本語の歴史や表現を突き詰めるということだったわけですよね?

これ以上詰めると、ちょっと大衆性を損なう感覚がありました。

―― 実験的な方向に行ってしまうような感じでしょうか?

学問化していく感覚がありました。自分の出発点は、ラジオでブッダブランドを聴いた時の衝撃、おもしろさなんです。それを言語化していくと、先鋭化の先にはなくて、もっと大衆音楽的だし、言葉へのアプローチもノリというか身体的というか感覚的。平たく言えば、もっとファッションぽいものです。文学や学問の領域に行くのも自分の好みとしてはありえるけれど、やっぱりブッダブランドの「人間発電所」みたいなものが好きなんです。

成人の方々へのMessage

なにがあっても自分が好きだと思えることを続けていきたいと思います。お互い、引き続き頑張っていきましょう。

Tamaki Roy

環 ROYラッパー

1981年宮城県生まれ。ラッパー。これまでに6枚の音楽アルバムを発表、国内外の様々な音楽祭に出演。近年の作品に音楽アルバム「Anyways」(20年)、パフォーマンス『ありか』パリ日本文化会館(20年)、絵本『ようようしょうてんがい』福音館書店(20年)、展示音楽『未来の地層』日本科学未来館(19年)などがある。MV「ことの次第」が第21回文化庁メディア芸術祭にて審査委員会推薦作品へ入選。
http://www.tamakiroy.com

40歳 成人の日

40歳へのInterview

Tamaki Roy

環 ROYラッパー

ラッパー環ROYさんはヒップホップ、ラッパーの界隈においても、特殊な存在感を発揮し続けている。フリースタイルバトルの現場からはじまり、日本語を突き詰め和歌を歌詞に取り入れるなど様々な表現を実践し、ダンサーとのパフォーマンスやインスタレーション、最近では絵本まで書いている。そうした多様で多彩な活動とは裏腹に、環さんはいつも道を踏み外してしまうのではないかという不安が常にあるという。40歳でようやく大人を意識しだしたというラッパーのこれまでの20年。

マイノリティとして社会に属するために、自分が好きなヒップホップ、ラップで生計を立てられたらいいなと思っていました。というかそれしかないって感じでした。

洋服にはないムード

―― 着物はこれまで着たことはありますか?

2018年に、茨城県の結城市でやっている「結の音」というイベントに出た時、名産である結城紬を着させてもらってパフォーマンスをやったことがあります。それくらいですね。この前、自分の七五三の写真を見たら、洋服で白タイツを履いていました。

―― 今日、着てみていかがですか? 撮影で動いたりもされていましたが。

大股で動けないので、足の動きのストロークはでないですよね。時代劇で走る時に裾を捲って走る描写がありますけど、日常着としてはそこに不便さがあるようにも見える服が、今まで変化せずにきた理由が何だろうとか考えていました。

―― 捲らないと走れない不便さを不思議に感じたんですね?

階段の一段飛ばしも難しいですし、きっと何か理由があるんでしょうね。一方で裾がパンツのようにまとまらず布として広いままなので、動いた時に面ができる。それはやっぱり洋服にないムード、印象がありました。

40歳になって大人になった

―― 成人式は出ましたか?

出てません。セレモニー的なものに全然興味が持てなくて。

―― 20歳に何か区切りのようなものは感じますか?

あまり年齢で区切ることはないかもしれません。

―― 18歳で進学のために地元仙台を出て、千葉に住んでいたんですよね?

それも進学で、という感じです。2021年で40歳になって、40歳になったなーと思ったから、この頃は年齢を意識してる部分はありますね。

―― では、大人になったなというタイミングはありましたか?

むしろそれが40歳くらいからかも。

―― 20歳の頃はどんな時期でした?

学生でした。学校に行く以外は、ブックオフで100円で売っている純文学のクラシックを読んだり、レンタルビデオ屋でいろんな映画を借りたり、そういうことで満足できるタイプでした。それと、趣味でDJみたいなことをしていたので、ときどき東京に行ってレコードを買ったり。

社会に馴染めないときの選択肢としてのラップ

―― 音楽や本、映画の日々だったんですね。その頃、ラップはまだやっていなかったんですか?

20歳頃から、ラップのリリックを書き始めたというか、リズムに合わせて何か言うことを始めましたね。

―― ラッパーになろうと思っていたんですか?

ラッパーになりたいと思っていました。17歳で、 Zeebraのファーストアルバムを発売日に買いに行くような高校生で、当時は曲を聴いて暗唱していました。いま昔のことを考えたんですが、ラッパーになりたいと思ってはいたけど、歌詞は書いてなかったですね。なんでだろう。当時は、DJにも同じように憧れていたのもあるし、詞を書くことに気恥ずかしさを感じていたのかもしれません。

―― ヒップホップの世界には独特の社会やルールがありますよね?

最初は何もわからないから暗中模索でした。とりあえずやってみる、みたいな。

―― ラップを始めた20歳の頃は、これからの自分をどう思い描いていました?

会社員は無理というか、社会に馴染めない感覚が中学生ぐらいからすごく強くて。社会に馴染めないのにどうやって生きていこうかなあとしか思ってなかったです。

―― 社会への馴染めなさは、いろいろな反応の仕方や出方があると思います。ヒップホップはそういう手段でもあったのでしょうか?

いわゆるマジョリティとして社会に属することは無理だと思っていて、マイノリティとして社会に属するために、自分が好きなヒップホップ、ラップで生計を立てられたらいいなと思っていました。というかそれしかないって感じでした。そのための暗中模索で、いま思うとガムシャラでした。

―― 2001年当時、インターネットもまだ浸透していない時期です。どんな活動の仕方をされていたんですか?

同じ趣味を持つ人が集まる場所、例えばクラブとかに出向いて、仲間をみつけて関係を作って交流を深めて、それによって居場所を見つけていきました。要するにクラブに行って、人と会って、仲間を増やして、仕事を振ってもらって、それを増やしてきた、ということだと思います。失敗しても無限にやり続ける。ひたすらチャンスに出会うために動くって感じです。

20代も、30代もずっときつかった。バイトしながら「いつホームレスになるかわからない」くらいの気持ちでやっていました。

いつホームレスになるかわからない

―― 社会に属することの難しさを感じていた中で、大学を卒業して今までの約20年間を、20代、30代と分けると、それぞれどんな10年間でしたか?

20代も、30代もずっときつかった。バイトしながら「いつホームレスになるかわからない」くらいの気持ちでやっていました。28歳までにラップで生計が立たなかったら辞めなきゃいけない、みたいなことはぼんやり考えていました。実際にラップの収入だけで生きられるようになったのが27歳頃でした。

―― 目標があって、そこへの積み重ねで生計が立つようになったんですね。達成感はありましたか?

達成感はなかったですね。シームレスというか、バイトで外に出なくて良くなったというだけで、ライブや音源制作に呼ばれなかったら仕事がなくなって、戻る可能性もあるわけです。それは今も変わらない感覚としてあります。

―― 常に不安とともにあったし、あるということなんですね。

ですね。

―― その不安を解消するために、ラップをやめて安定的な仕事をするという選択肢はなかったんでしょうか?

ないですね。できないです。資本主義の構造によって生まれる矛盾は、絶やすことができないじゃないですか。組織の中に入れば入るだけ矛盾にさらされる機会が多くなるし、そこを我慢して耐えるというのが無理だと思います。

―― 富む人がさらに富み、格差が拡大する状況もありますよね。

哲学者のマイケル・サンデルも『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を書いているように、実力も運のうち。なんなら全部が運だと思っています。小さい頃から、そういうことにすごく興味がありました。社会には王侯貴族や庶民、お金持ちや貧乏人、一般人や政治家、官僚、そういうものが厳然と存在している。それはどういうことなのか、確認しながら生きてきました。

―― 構造から生まれるそれぞれの社会的立場は運にすぎないことを自覚するべきだと考えているんですね?

そうありたいです。

―― 20歳からの20年という時間で、基本的な考え方は変わっていないんですね?

道を踏み外していたかもなと思うし、悪いことをしてしまう人の気持ちもわかるところがあります。今の妻に会って結婚してなかったら、音楽で食えていたとしても、精神的に病んでいたと思います。

―― それは出会えたことに感謝ですね。お子さんが生まれていかがですか?

36歳で結婚して、いま4歳と1歳の子がいます。子どもができたことは大きかったと思います。自分に不安がある中で子どもが生まれて責任の重さを感じると同時に、嬉しいというか、無垢な存在に前向きなエネルギーをもらっています。子どもを対象にしたラップもしているし、絵本を書いたり、翻訳したりもしています。

良くなっていく、いかないという成長史観がなくなってきました。その時々で自分の中に課題を見つけて取り組む、それを続けていければよいと思うようになっています。

音楽をメディウムにしたアートをやっている。

―― ライブだけでなく、ダンサー島地保武さんと「ありか」などパフォーマンスの活動も行っていますね。そういう活動のフィールドが増えていく、表現の可能性の進化についてはどう考えていますか?

良くなっていく、いかないという成長史観がなくなってきました。その時々で自分の中に課題を見つけて取り組む、それを続けていければよいと思うようになっています。最近は、作詞作曲をすべて一人でやるようになってきましたし、録音や整音も自身でやれるように研究しているところです。音楽制作において、自身で出来る領域を広げていき、創作物の純度をあげていくのが直近の気分です。音楽をメディウムにしたアートをやっているという気持ちになってきています。

―― そうした変化はその時々に起こることであって、どうなっていくか分からない部分がありますよね?

これまでは、専門技術を持つ他者の作った音楽、要はビートメイカーのビートにラップを載せる形式での楽曲制作がほとんどでした。その場合、自由にできるのが自分の声と歌詞だけなので、どうしても歌詞が先鋭化していくような感覚がありました。自分でビートを作るようになってからは、意識の展開がサウンドのほうにも流れていく感じがして、言葉の操作に対する意識もかなり変化しています。また録音や整音についての研究を通して音響についての理解が深まっていくことを楽しんでいます。

―― 言葉の先鋭化は日本語の歴史や表現を突き詰めるということだったわけですよね?

これ以上詰めると、ちょっと大衆性を損なう感覚がありました。

―― 実験的な方向に行ってしまうような感じでしょうか?

学問化していく感覚がありました。自分の出発点は、ラジオでブッダブランドを聴いた時の衝撃、おもしろさなんです。それを言語化していくと、先鋭化の先にはなくて、もっと大衆音楽的だし、言葉へのアプローチもノリというか身体的というか感覚的。平たく言えば、もっとファッションぽいものです。文学や学問の領域に行くのも自分の好みとしてはありえるけれど、やっぱりブッダブランドの「人間発電所」みたいなものが好きなんです。

成人の方々へのMessage

なにがあっても自分が好きだと思えることを続けていきたいと思います。お互い、引き続き頑張っていきましょう。

Tamaki Roy

環 ROYラッパー

1981年宮城県生まれ。ラッパー。これまでに6枚の音楽アルバムを発表、国内外の様々な音楽祭に出演。近年の作品に音楽アルバム「Anyways」(20年)、パフォーマンス『ありか』パリ日本文化会館(20年)、絵本『ようようしょうてんがい』福音館書店(20年)、展示音楽『未来の地層』日本科学未来館(19年)などがある。MV「ことの次第」が第21回文化庁メディア芸術祭にて審査委員会推薦作品へ入選。
http://www.tamakiroy.com