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2026.03.20

藍染め作家・背守り研究家 鳴海友子氏 スペシャルインタビュー【前編】
藍染め作家・背守り研究家 鳴海友子氏 スペシャルインタビュー【前編】

Special Interview

藍染め作家・背守り研究家
鳴海友子氏 スペシャルインタビュー【前編】

母の祈りと針仕事が宿る「背守り」

かつて、日本の母親たちが我が子の無病息災を願い、その背中に一針一針祈りを込めた「背守り」。
医療も衛生も十分ではなかった時代、目に見えない病魔や災いから子どもを守るため、着物の背に施された小さな魔よけの印は、日本各地に息づく文化でした。

今回、そんな背守りの美しさと切実な親心に魅了され、各地を歩いて背守りのついた子どもの着物を収集。誌面や展示会、ワークショップを通じてその魅力を発信し、現在は背守り研究家として知られる藍染作家・鳴海友子さんにお話を伺いました。

“運命の雑誌”との出会いから、自ら藍を建てて手仕事に向き合う日々、そして孫への想いが「知識」を「祈り」へと変えた瞬間まで——。背に宿る、日本の文化と母たちの祈りのかたちを【前編】【後編】にわたり深掘りしていきます。

【前編】では、背守りとの出会いから、背守りの歴史背景について語っていただきました。

2026年3月20日(金)〜3月29日(日) YAMATO Lab. TOKYO 企画展
『背守り ― 祈りのかたち 願いを込めたひと針 ―』開催

背守りとは

子どもの着物の背につけた、魔よけのお守り。
大人の着物は、反物を継いで作るため背に縫い目がありますが、身幅が狭い子どもの着物は一つ身(反物の巾)で作られるので背縫いがありません。

背中の縫い目には霊力が宿り、背後から忍び寄る魔を防ぐと考えられていました。
そこで、背に縫い目をほどこし魔よけとする風習「背守り」が生まれました。

現代よりも着物がもっと日常的であった頃、母親が我が子の健やかな成長を祈り、お守りを縫い付けた風習は全国的にありました。わずか数針縫ったもの、押し絵、刺繍と凝ったものまで形は様々です。

昭和はじめ頃までの、医療、衛生、栄養状態は悪く、厳しい時代。
その時代に生まれた子どもの命が、病魔や災いから守られるよう願いを込めて施された、祈りのかたちです。

背守りとの出会い

私の原点は、季刊『銀花』秋 第二十七号との出会いでした。誌面で目にした「背守り」の魅力に心奪われ、「よし、自分で探してみよう」と決意したのがすべての始まりです。

背守りに出会うきっかけとなった、季刊「銀花」秋 第二十七号

当時はまだ「背守り」を知る人も少なく、各地の骨董市を巡っても、なかなか出会うことができませんでした。「ここを最後に、見つからなければ諦めよう……」そんな切実な思いで暖簾をくぐった、表参道の骨董通りにあった老舗古民藝店で奇跡が起こりました。

なんと、そこのご主人が「背守り」をご存じだったのです。お話を重ねるうちに、「鳴海さん、一緒に集めましょう」と心強い言葉をいただき、収集に協力してくださることになりました。現在、私の手元にある着物たちのほとんどは、そのご主人の確かな目利きを経て集められた、かけがえのないコレクションです。

こうした深いご縁で集まった着物を手に取るたび、「どんな子が着ていたのだろう」「この数針の縫い目は……」と、当時の親たちの切実な想いや、丁寧な手仕事の情景が、今でも鮮やかに浮かび上がってくるのです。そんな思いを馳せる時間は、私にとって何よりの幸せでした。

訪れた転機と師匠の言葉

収集をはじめた当時は「背守り」と「子どもへの祈り」は別のものとして考えていたんです。そんな私に、ある転機が訪れました。

初孫が生まれ、その子のために産着を作ろう、そこに背守りもつけようと、布を染めシンプルな糸じるしの背守りを縫い付けたんです。

しばらくして、その子が病気になったという知らせが届きました。慌てて、近所の鶴岡八幡宮に駆け込みお札を貰いに行ったのだけど。
その時、藍染の師匠から「他にもっとすることがあるんじゃないですか」と言われ、ハッとしたんです。背守りの収集を続ける中で、母親の針仕事に触れ、感動していたのにもかかわらず、神社のお札に頼ってしまったと。

もっと自分で何かできることはないかと考え辿り着いたのが、普段着であるTシャツを藍で染めて、その背に「背守り」を施すことでした。

鳴海さんが制作された背守り付きの藍染Tシャツ

身近なTシャツに背守りを甦らせて、どうにか現代に継承したいと。孫が生まれて気づくことができたんです。
そこから、時代が変わっても子どもに健康に育ってほしいと願う母の思いは変わらないのだと伝えるために、各地での「背守り」ワークショップや展示会を開催しはじめました。

憧れの誌面がつないだ、祈りのかたち

季刊『銀花』を通じて「背守り」に出会った私は、いつか自分の作品がこの誌面を飾ることができたら、どんなに幸せだろうとずっと夢見ていました。 そんな折、出版局からお声がけをいただき「背守り」に出会ってから7年、ついに季刊「銀花」夏 第百五十八号にて掲載の運びとなりました。

鳴海さんのコレクションや作品が掲載された
季刊「銀花」夏 第百五十八号

私は学者ではありません。一主婦として、ただ懸命に「背守り」を集めてきただけなんです。 学者の方のように文献を紐解く術は持っていませんでしたから、とにかく自分の「足」で探しまわりました。
骨董市をめぐり、実物に触れながら、自分なりに想像を膨らませて取り組んできた日々が夢へと繋げてくれたんだと思います。

江戸時代では「米一俵に、木綿一反」

「子どもの着物」というのは、古くはお父さんやお母さんの「お古」だったんです。 江戸時代には「米一俵に木綿一反」という言葉があったほど、布というものは現代の私たちが想像する以上に貴重な財産でした。
ですから、生まれる前から服を用意しておくなんてことは、一般家庭では滅多になかったそうです。

私の母からも聞きましたが、当時の子どもの命は本当に儚いものでした。厩(うまや)で生まれた子はまず麻布にくるまれ、七日間を無事に生き延びることができて初めて、一着の服を着せてもらえた。それが「お七夜」の本来の姿でもあったのですね。

やっと七日目を迎え、着せてもらえる服といっても、それはお父さんの浴衣や丹前、あるいは羽織の裏地や、くず繭で織った反物などを仕立て直したものでした。 着物は「直線断ち」ですから、傷んだところを避ければ、どこか良い部分を子ども用に活かすことができたんです。そうして仕立てられた一着は、長男から次男へ、そして隣のお家の子へと受け継がれ、最後はボロボロになるまで使い切って雑巾になりました。

だからこそ、当時の「子どもの着物」を形として収集するのは本当に大変なことなのです。私の収集に協力してくださった古民藝店のご主人も、現存するものを探すのには相当なご苦労があったと思います。

そんな厳しい暮らしの中でも、親たちは「せめて子どもらしい色をつけてあげよう」と考えました。真っ赤な糸で糸印を縫い付けたり、余り布や手絡(てがら)で色とりどりのアップリケを施したり……。

もちろん、裕福なお家の子であれば、鮮やかな色合いや絞り染めの着物を纏うこともできましたが、多くは質素なものでした。
それでも、そこには確かな「祈り」がありました。 今のように物も糸も豊富ではありませんから、ほんの短い糸くずさえも大切に取っておいて、それを繋いで短い背守りを縫った跡も見受けられます。

参考文献
LIXIL 出版(2014)『背守り 子どもの魔よけ 』
文化出版局(1976)『季刊 「銀花」秋 第二十七号』
文化出版局(1999)『季刊 「銀花」冬 第百二十号』
文化出版局(2009)『季刊 「銀花」夏 第百五十八号』

藍染め作家・背守り研究家
鳴海友子氏

季刊「銀花」や「暮らしの手帖」に紹介記事が掲載されたことをきっかけに、各地で背守りの展示会やワークショップを開催し、子を想う母の祈りのかたちを現代に伝える活動を行っている。

2026年3月20日(金)〜3月29日(日)
YAMATO Lab. TOKYO 企画展
『背守り ― 祈りのかたち 願いを込めたひと針 ―』
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