産地・福岡県 博多
博多織

中国から伝わった絹織物

「博多織」が生まれたのは、1241年の鎌倉時代のこと。博多の商人だった満田弥三右衛門が、禅宗の和尚・円爾(聖一国師)とともに宋(現在の中国)に渡り、唐織の技術を持ち帰ってきたことが始まりでした。
当時の筑紫国 博多は大陸の玄関口として栄え、さまざまな大陸文化が入ってくる、活気にあふれた貿易の街でした。弥三右衛門は織物とともに朱焼、箔焼、素麺、麝香丸の技術も持ち帰り、博多の人々に伝えましたが、織物だけは家伝とし、独自の技術を交えながら末代まで受け継ぎました。
当時の博多織は細い紐状だったことから、男帯として誕生したといわれています。その後、徐々に幅が広がり、江戸時代中期になると、現代のような広い帯となりました。糸は当時から絹を使っており、大変貴重な織物だったことが想像できます。

経糸で文様を作り上げる

博多織は、他の産地ではなかなか見られない厚手の織物です。その理由は、独自の織り方にあります。6,000〜15,000本もの経糸(たていと)を使い、それに太い緯糸(よこいと)をしっかりと打ち込んでいくことで、ハリのある生地に仕上げていきます。
また、柄の作り方にも特徴があります。例えば、京都の西陣織が緯糸で柄を作るのに対し、博多織の場合は、地の糸のほかに経糸を組み込み、経糸で文様を編んでいきます。その織り方ゆえに、献上柄や縞・段文様といったシンプルな文様が多く作られました。それらの文様は「紋紙」という穴の空いた厚紙に起こされ、データ化された後に、織機で織られます。
博多織の魅力は、その締め心地にあります。「博多織は、締めやすく緩まない」とは、昔なじみの常連の声。帯を締める度に「キュッキュッ」と、心地いい絹鳴りの音が響くのです。

博多の旦那衆と博多織

博多織が生まれた街には、様々な祭りがあります。代表的なものが「博多祇園山笠」で、これも聖一国師が始めたといわれています。
祭り好きの旦那衆は、祭り事となると1ヶ月も前から商売を忘れ、準備に取り掛かりました。ですから、旦那衆が不在の間、ごりょんさん(奥さん)たちが家を守り、旦那衆に代わって商売を切り盛りしたのです。そして、祭りが終わった暁には、1ヶ月留守にしたお詫びのつもりで、夫から妻へ、帯ときものを買ってあげるのが習わしでした。気質は荒いけど、心意気はいい。一本気のあるところが博多の男なのです。

門外不出の「献上柄」

博多織には「献上柄」といわれる博多独特のデザインがあります。そのモチーフとなったのが、仏具の「独鈷」と「華皿」と「縞」。この柄は、弥三右衛門とともに宋に渡った聖一国師の提案によるものでした。「献上柄」という名称は、江戸時代に福岡を治めていた筑前藩主・黒田長政が、徳川幕府への献上品として博多織を選んだことに由来します。
人々の生活が裕福になり、織物の技術が発展してきた江戸時代。一般大衆も織物を手にできるようになりましたが、「献上柄」だけは黒田藩が厳格に管理をし、12軒の機屋以外には作らせませんでした。博多織が西陣織のように全国に普及しなかったのは、そのような背景があるのです。

時代の変化と博多織

明治時代に入ると、博多織は自由に生産できるようになり、「献上柄」の帯も一般大衆に広がっていきます。そして時代は、大正から昭和へ。
終戦を迎えた昭和20年代は、まず何より生活をしていくことが第一でしたが、昭和30年代に入ると衣服を整える余裕も生まれ、織物が広く普及します。昭和30〜40年代は博多織の全盛期。機屋の数も急増しました。ところが昭和40〜50年代、自動車が一般家庭に普及すると、「きものでは運転がしにくい」と身に着ける衣服も変わり、きものが敬遠されるようになりました。そして、世の中は男女参画の時代へ。共働きの家庭が増え、家庭は豊かになりましたが、同時に、きものを着て帯を締めて、ゆっくりと過ごす時間は失われていきました。そしてその頃から、きものに対する考え方も変わってきたのです。
従来の日常着から、より良いもの、自分の個性に合ったものを求める人が増え、作る側も、以前のようにがむしゃらに大量生産をする姿勢から、より品質の高いものづくりをしようと、意識が変わっていきました。こうして、従来の画一的なデザインから、機屋ごとの個性が花開くのがこの時代です。博多織は大きな転換期を迎えたのです。
現在では、すっかり全国区となり、広く愛用されている博多織ですが、その地位に甘んじないのが博多商人の心意気。新しもの好きの博多商人は、伝統を受け継ぎながらも、現代に合った色目や新しい文様を生み出し、若い世代にも博多織を取り入れてもらえるよう、新しいものづくりに取り組んでいます。「きものが好き」という人がいる限り、その想いに応え続けること。それが、歴史を次に繋いでいく職人たちの使命なのです。