産地・新潟県 小千谷
片貝木綿

職人の町・片貝町

新潟県小千谷市の片貝町で、片貝木綿は生まれました。今でこそ片貝町は小千谷市の一部ですが、1956年に合併する前は三島郡片貝町と呼ばれ、日本海に近いことから、様々な物資が海を越えて渡ってくる土地でした。
江戸時代は幕府の直轄領(天領)だったことから、「安心して仕事ができる」と、多くの職人がこの町に住み着き、その中には、鍛冶屋や箪笥屋、下駄屋、酒の醸造を行う杜氏も多かったといいます。当時は生地の染め物屋も4、5軒ありましたが、現存するのは紺仁染織工房のみとなっています。

紺仁染織工房の染め物

片貝木綿を手がける紺仁染織工房は、1751年に創業しました。当時の染め物屋は藍が主体だったことから、「紺屋」と呼ばれていました。
もとは、信濃川流域で作られた綿を染め、オーダーメイドの半纏や暖簾などを作っていましたが、徐々に素材も手がけるようになり、農家の方が着る野良着や作業着を織っては、染色まで手がけることが増えていきました。
紺仁で手がけている染め物は、藍染めと松煙染め、草木染め、化学染め、顔料染めの大きく分けて5種類です。とくに藍染めは、職人の腕の見せどころ。気温や湿度によって日々色が変わるため、長年の勘と経験が求められます。毎朝、床板を開けて藍の具合を観察し、泡立ちや色合いから仕上がりを想像して、手作業で染め上げていくのです。
きものによく使われる松煙染めも、紺仁が誇る技術の一つ。松煙は、藍染の際に染料を定着させ、濃度を上げるために使われますが、単体で用いることで、落ち着いた自然の色合いが生まれます。

染めの仕事は、毎朝、豆汁(ごじる)を作ることから始まります。豆汁とは、一晩水に浸けてふやかしておいた大豆を石臼で擦り、できた豆乳から絞りカスを取り除いたもの。染料を塗る前に生地に豆汁を塗ることで、染料を定着させ、濃い色を出す働きがあります。高たんぱくな大豆は、時間の経過や温度変化によって腐敗が進むため、作り置きができません。毎日新鮮な大豆を使うことが、良い染め物のための出発点なのです。

片貝木綿の始まり

ときは、昭和に移り変わる直前の大正14年。世の中では、美学者・柳宗悦が「民藝」という言葉を提唱し、日用品の中に美を見出す「民藝運動」を進めていました。そして昭和20年代。紺仁の染織が、民芸運動の一環として日本各地を回る一行の目に留まり、技術を生かした独自の織物を作ることを勧められたのです。
「これからは、作業着のための藍染めは不要になる。それに代わる、カジュアルでおしゃれなものを作ろうじゃないか」、そんな声をきっかけに生まれたのが、片貝木綿でした。
自然素材である綿をできる限り自然のまま生かし、太さの異なる3種類の糸を組み合わせて織った片貝木綿。吸水性に優れた綿素材は表面が平らなため、肌にまとわりつくのが難点ですが、3種類の糸を合わせることにより、細い糸が肌に当たらず、空気をはらみ、サラっとした感触が続くよう仕上げました。「太い糸と細い糸を混ぜると、糸の良さが表情に現れる」とは、柳さんの教えでした。

自然のままの片貝木綿

片貝木綿は、綿を捻って糸にした後に加工を加えず、捻りの甘い状態で織っていきます。それにより、綿が空気をはらみ、ふっくらとした布地が織り上がるのです。太細を混ぜることで太い糸が背骨のような役割を果たし、洗えば洗うほど、糸自体が元の状態に戻ろうとする力が働くため、型崩れしにくく、シワになりにくい良さもあります。
織り終わった生地は棒に引っ掛けて、天井から“だら干し”します。植物繊維は水分を含み、吸湿性が高いので、機械で乾燥させると生地の幅や丈が詰まり、仕立てた時に縮んでしまいます。一晩かけて自然に乾燥させることで、無理なく生地が詰まり、ふっくらと柔らかいまま乾くのです。片貝木綿は、着るほどにだんだんと肌に合うようになり、着やすさが増していきます。

気持ちを込めて、木綿を生かす

片貝木綿の製法は、当時からほとんど変わっていません。撚った糸を加工せず自然のまま使うので、織る際に力がかかると糸の抜けや切れも多くなります。それだけ扱いが難しく、手間暇がかかるのです。しかし、効率を求めたら、必ずマイナスが出る。長く続けてきた中で、今のやり方が木綿にとって一番良く、やさしい風合いになると確信しているからこそ、忠実に守り続けています。
ものづくりは日々同じ作業の繰り返しです。ですが、「織り上がったものには、必ず作り手の表情が入る」と、紺仁染織工房の松井均さんはいいます。いつの世の中になっても、いいものは必ず残る。だからこそ、手間暇かけても「片貝木綿でなくては」というお客様のために、当時の製法を守り続けています。