「きものと日本文化」
武蔵野美術大学講義



これは2016年5月11日(水)武蔵野美術大学 造形学部 デザイン情報学科での当社会長 矢嶋孝敏講義「DOUBLE MAISON 序説〜きものフォルムと日本文化から」より、「きものと日本文化」についての講義内容を抜粋、遂語訳したものです。


きものと日本文化

矢嶋:「日本文化の心」についてお話ししようと思います。「文明」というのは早くて安くて便利なもので、シャワーやカップヌードルなどが該当します。「文化」は時間もコストもかかり、便利とは限らない、温泉や手作り料理のようなものです。また、文明は世界共通でグローバルです。シャワーやカップヌードルは世界共通の文明。しかし文化は地域ごとに異なるものです。料理は地域ごとに違いますし、温泉も然り。西欧文明の特徴は自然への挑戦、征服しようという点です。自然を征服しようとし、皆同じにしたい、したほうがいいという画一的な思考をします。更に、量で表現します。100よりも101のほうが偉い、強いというようなもので、それを象徴するのが洋服です。一方、日本文化の特徴は、自然との調和と共生です。西欧のように自然を征服しようとは思っていません。私達は自然とどうやって調和し、仲良くやっていくか、をまず考えます。次に“画一的ではなく個別”を重視します。更に“量ではなく質”で表現します。これらが文明と文化の違いであり、更にグローバルとローカルの違いなのです。やまとウェブライブラリーのバックナンバーに博多の人形作家 中村信喬氏と私による「グローバル社会における日本のモノづくり」という対談が載っています。その結論は、世の中がグローバルになればなるほどローカルが大事になる、でした。何故外国人が日本に来るのか、その意味はこの1年くらいで大きく変わりました。今まで、アジアの人が日本に来る主な目的は買い物でした。しかしこの半年程で買い物目的はどんどん減っており、逆にアジアの人たちは、日本文化を見に、そして体験する、へと変わってきています。グローバルなものを買いに来るのではなく、日本にしかないローカルなもの、例えば、食べたり、鑑賞したり、体験したりするために訪れているのです。その中で、和サークルというものが想定できます。それは、私はズバリ、華とお茶ときものだと思っています。もちろん他にもありますが、華とお茶ときものは、和サークルの典型だと思うのです。

 何故そう思うのか。個別を重視する日本文化の一例として、花が散るという表現を考えてみましょう。英語では一般的に、flower are fallingと言います。他に言い方がいくつかあるにしても、これが一つの決まった言い方です。しかし日本語では、花が「散る」ことを、桜は“散る”、菊は“舞う”、椿は“落ちる”と言います。また萩は小さな白い花がたくさんついていますが、“こぼれる”と言います。梅も“こぼれる”と言い、牡丹は“崩れる”と表現します。花ごとに、散る意味の動詞が全部違うのです。こんな面倒くさいことは、日本にしかありません。この背景には、出生美(しゅっしょうび)という観念があります。出生とは、草木それぞれが持つ特徴、いわば個性であり、草木が自分の個性を生かそうと懸命に生きる様々な姿に美を見出すことを出生美と言います。梅は梅らしく、桜は桜らしく。
 桜が散るのを美しいと世界で最初に発見したのは日本人だと思います。私がそれに気づいたのは20年ほど前です。沖縄にも桜はあります。沖縄の桜は2月の頭の節分の頃が満開です。寒緋桜または緋寒桜と言いますが、沖縄の桜は花びらが散りません。ぽとん、と花ごと落ちます。色が東京のソメイヨシノよりも濃く、東京の花びらはヒラヒラと散るのに対して、沖縄の桜は落ちるのです。沖縄から来た友人が千鳥ヶ淵を歩いていて急に写真を撮り出したのですが、沖縄にも桜はあるし、沖縄の桜はシーズンが終わっていたので既に見ているはずなのに、と思いました。何を撮っているのかというと、桜ではありません。花びらが散っていく景色を撮っているわけです。皆さんにとっては当たり前のことですよね。でも同じ話をアメリカ人やフランス人に話すと、見るまでは信じません。桜が散っていくことが美しい、と言うと、日本人は変なことを言う、と反応されます。画一的な思考をすれば、花は皆同じように散るのです。でも桜の散り方と椿の落ち方が違うということはわかるでしょう。これが個別を重視する、文化を重視する日本文化の一つの例です。


矢嶋孝敏

 この華(道)と、茶(道)と、きものに共通する「日本文化の3つの心」を説明していくと、まず「おもてなしの心」です。これは滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」のフレーズで有名になりましたが、実際に行なうのは結構大変です。もてなすというのは、自分の心を相手の心に合わせることです。これは書くと簡単ですが、普通私たちは、相手の心をどうやって自分の方に持っていこうか、と考えてしまいます。関心を持ってほしい、自分の言うことを聞いてほしい、好きになってほしいとか。相手の気持ちをどうやって惹きつけるか、相手の心を鷲掴みするか、などは、おもてなしではないと言えます。おもてなしは自分の心を相手の方に合わせる、わかりやすく言うと、例えば私が鳥料理が得意で、美味しく作れたとしても、鳥料理が嫌いな方にそれを出してはいけません。蕎麦も同様、私が蕎麦好きでも、蕎麦を嫌いな人に蕎麦を勧めることは強制です。日本人でも寿司が苦手という人がいます。魚卵系が苦手という人は結構多いです。その時にこのイクラが美味しいよ、というのは私にとって美味しいのであって、相手が美味しいと思うわけではありません。もてなすとは、自分の心を相手の心に合わせることであり、自分のしたいように、ではなく、相手の望むようにすることなのです。今少しこの部屋のクーラーが寒いなと思っても、もっと寒くしてほしい、という人がいたら、我慢することなのです。人間はつい自分を優先してもてなしてしまいます。もてなす、とは自分をもてなすのか、人をもてなすのか、どちらなのかということを考えないと、もてなしになりません。
 何故これが華、茶、きものに共通なのか、2つ例を挙げます。まず1つはお茶の例です。石田三成のお茶の話を聞いたことはありますか? 豊臣秀吉に可愛がられた人ですが、元々はお寺の小僧さんでした。ある時、秀吉が鷹狩りに行き、三成のいるお寺に寄った際に、小僧であった彼を見て家来に召し抱えたのです。それはどうしてか、有名な話ですが、三成は秀吉に、まず大きな茶碗にぬるいお茶を出しました。2回目のお茶は中ぶりの茶碗に、もう少し熱いお茶を少し濃く出し、そして、最後のお茶は小さな茶碗にかなり熱いお茶をもっと濃い目に出したのです。つまり、秀吉という相手に合わせてお茶を点てたということです。いきなり知らない寺に来て、茶をくれと言うのだから、喉が渇いているだろうと考え、そんな時に濃い目の熱いお茶を出しても火傷をするだけ。ならば薄めでぬるいものをたくさん出して、次は中ぐらいの濃さと熱さのお茶を出し、最後、これで帰る、という時には、小さい茶碗で熱いお茶を濃い目に出す。するとお茶の味がどんどん濃くなり、美味しさのレベルが上がるのです。これがおもてなしです。
 次に華です。日本のいけばなは池坊から始まるのですが、その始まりは今から約1400年前、仏様に花を添えたことからです。お墓に花を持っていく人は世界中にたくさんいます。しかし、西洋では神様に毎日花を差し上げることはあまりありません。仏様に花を立てるという風習は日本特有とも言えるでしょう。キリスト教で言えば天国、仏教で言えば来世に対して花を掲げることを、仏前供花といいます。それは来世と通信する手技とも言えます。仏像が、花を供えられて喜ぶわけではありませんが、仏前供花をすることで、向こうの世の見えない人と対話するのです。つまり、花はおもてなしなのです。
 また、秀吉と千利休との逸話にこんなものもあります。秀吉がある時、利休の家の庭の朝顔が見事に咲いていると聞き、見に行きました。しかし利休は朝顔を全部切ってしまいます。当然、花は一つも残っていません。しかし秀吉が茶室に入ると、そこに一輪だけ朝顔があったのです。秀吉は思わず「利休、見事じゃ」と叫んだそうです。他が全部なくなっているからこそ、その一輪の朝顔がとても綺麗に見えるのです。one of themではなく、only oneの朝顔になったということです。このようにお茶も華もきものも、相手をもてなすものなのです。きものは自分が着たいものを着る、という場合もありますが、私は今日、外は24℃で暑いだろう、と思い、だったら涼しく見えるような格好にしよう、とこのきものを選びました。自分がどう思うかではなく、相手がどう思ってくれるか、が、きものの着方の最大のルールなのです。相手に合わせる、蕎麦を好きな人には蕎麦、うどんを好きな人にはうどん、イクラを好きな人にはイクラ、魚卵系がダメな人には他のものを、というのが、おもてなしだと思います。

 次に四季を愛おしむ心です。日本には1月の牡丹、2月の梅、3月の桃、3月中頃の木蓮、4月の桜、5月の皐月、とたくさんの花があり、順番に咲きます。そこに何を感じるか、「行く季節を惜しむ気持ち」です。例えば4月は、わずか10日しか咲かない桜を惜しむのです。行く春を、夏を、秋を、冬ですら愛おしいという、行く季節を惜しむ気持ちは、旬の食を感謝して頂くこと、と似ています。地域によって天豆と言われる空豆が、値段は高いですがようやくお店に出てきました。アメリカでも大きなスーパーに行けば、「EDAMAME」(枝豆)があります。枝豆は冷凍できることから海外でも人気です。しかし空豆は現在冷凍できません。枝豆は一年中食べられますが、空豆は今しか食べられません。これが旬の食を感謝して頂く気持ちです。


また今は世界中から魚を獲ってくるので鰹は一年中食べられますが、本来日本近海から獲ってくる場合、旬があり、出始めは「走り(初)」、ピーク時は「盛り」、そろそろ終わりの頃を「名残(戻り)」と呼びます。頂く季節によって鰹は全て違うのです。これもまた旬の食を感謝して頂く気持ちです。江戸時代、特に初鰹は江戸っ子に大人気で、「女房を質屋に入れてでも食べたい」とまで言われていたくらいです。文献によれば諸説ありますが、大体鰹の4分の1切れがおよそ1両。初鰹で、です。今なら8万円です。でもそれが旬です。人より先に新しいものを食べたい。移ろいゆく季節を感じて暮らす心なのです。
 春は花が咲き乱れ、夏は緑に覆われ、秋はその緑が紅葉し、冬は真っ白になる。あるいは何もない木枯らしの景色になる。一つの景色が大きく4回変わります。日本には二十四節気というのがあり、今日は立夏の次候で、蚯蚓出(みみずいづる)です。余談ですが蚯蚓は土を作ります。皆さんご存知のダーウィンは、蚯蚓の研究だけで10年の歳月を費やしました。ダーウィンは、石の上に置いた蚯蚓が、食べたものを吐き出し、それが土になっていく様を毎日ずっと見つめていました。つまり蚯蚓は土を作っているのです。だから畑の中に蚯蚓がたくさんいると、そこは良い畑になるのです。四季を愛おしむ心、季節とは生きているものだ、という感覚です。草も鳥も生きていますし、全てが生きている。即ち、それを感じることが、四季を愛おしむ心なのです。
 華もお茶も同じです。お茶で言えば、春、夏、秋、冬、それぞれ全て違います。冬の「暁の茶事」は、およそ朝4時か5時に始めます。そこに電気はありません。月明かりか部屋の四隅に立った蝋燭の光だけです。京都をイメージしてください。雪が積もっています。空が明るくなってくると、その光が白い雪に照り返して、茶室全体がほのかに浮くように明るくなるのです。それは雪の日にしかなりません。しかもそれは朝6時を過ぎたらもう明るすぎてダメです。その瞬間を見る、楽しむ茶事が日本にはあるのです。きものでも春物・夏物・秋物・冬物があっていいですし、レースのきもののように、年間通して着られるものがあってもいい。その季節にしか食べられないものがあることは贅沢です。しかしパンやお米は一年中ないと困りますよね。一年中食べられるパンやお米、麺類があって、それとは別にその季節にしか食べられないものと両方あることは、とても豊かなことなのではないでしょうか。


 最後に、「一期一会の心」。お茶の話で聞いたことがあると思いますが、「今の時・今の相手・今の命を大切にする心」です。今日、私がここにいます。皆さんと、こういう形で時間を共有するのは今しかない。それが一期一会で、今というのは、今しかないから大事に過ごしましょう、という心です。これが何故きものに共通するかというと、このきものの着方は今しかできません。この羽織紐もサッと結んでいるわけで、何ミリの所で結ぼう、と考えているわけではありません。帯も今日と明日で、柄の出方が同じとは限りません。そして「今の時・今の相手・今の命を大切にする心」とは、生きているものは死にゆくことを受け入れる心なのです。


 華の話に戻りますが、いけばなは英語に訳す際とても困るということを、池坊次期家元 専好さんは仰っていました。フラワーアレンジメントは、いけばなの対訳ではありません。今日、いけばなは世界で「Ikebana」と呼ばれています。何が違うか。フラワーアレンジメントはできるだけ花の一番美しい状態を見せようとします。池坊専好さんが何十年か前、パリで2週間程個展を開催された際に、4、5日したら、主催者から文句が出たそうです。「花が枯れている、取り換えてくれ」と。しかし専好さんは「美しい花が枯れていくのを見ることも美しさなのです」、と取り換えませんでした。しかし主催者はなかなか理解してくれませんでした。「テーブルに落ちた枯れ葉を除けないでほしい」、という意味も伝わらなかったとのことでした。何故なら、テーブルに落ちてしまった枯れ葉は、フランスのような、文化に理解のある人達から見てもゴミなのです。しかし専好さんから見ればそれはゴミではなく、大事な死んだ花なのです。この感覚を理解するのはなかなか難しい。
 きものでも加賀友禅に同様の事例があります。加賀友禅の全ての柄がそうではありませんが、加賀友禅によく用いられる病わくら葉ばという柄があります。病葉(わくらば)というのは、虫が葉を喰い穴がたくさん開いている状態です。普通ならば汚い、あるいは病気だから捨てますが、それをきものに描くのです。それが何を意味するか、生きることは死ぬことに繋がる、ということです。お茶と華の共通項で言えば、お茶の話の中で先に挙げた椿は、花が落ちることから縁起が悪い、とされてきました。特にお茶では、今のようにお茶会の参加者が皆女性というわけでなく、もともと侍が嗜むことが多いことより、椿は「首が落ちる」ことを連想させる、と嫌われていました。こんな逸話があります。千利休の孫である 千宗旦と大変親しい住職が小僧に、庭で育てた椿を宗旦さんに一輪届けなさい、とおつかいに出しました。しかし、道中その椿がポロリと首を落としてしまったのです。困った小僧がその場に立ち竦んでいたところ、偶然宗旦が通りかかり、事情を話すと、「とりあえずうちに来なさい」と自らの茶室に呼び、「お茶を一服あげるから」と小僧を座らせました。そこで、花入れに裸の枝、花入れの下に今落ちたかのように花を転がしたのです。この宗旦の思いは、蕾の時も、咲き誇っている時も花、ポロリと落ちても花は花。つまりいつもその花は生きているということなのです。私も、花も、時間も、全部生きている、というのが日本文化の心です。


ご質問があればどうぞ。

学生:花の散ることが美しいと考えるのは日本人だけなのでしょうか。他のアジア圏の方々は、そういった感情はあるのでしょうか。

矢嶋:今ではアジア圏の方々にも理解されつつあるのではないでしょうか。日本の花見が凄いことになっていますね。上野公園は、土日より平日の方が混んでいます。テレビ情報ですが、平日、上野公園の桜の大通りにいる人々の6割がアジア系外国人だそうです。ですから花が散ることを美しく感じる気持ちを、日本が輸出しているのです。私たちは桜が散るのを綺麗と感じますが、見方を変えれば、暇なやつだなあ、散っていく花を見て喜んでいるなんて、と思う人もいるでしょう。私たちが散りゆく花を見て美しいと思う気持ちは、心に余裕がないと受容できません。言い方を変えれば、心の中に桜の花びらが散り、溜まるような隙間がないとわからないのです。そういう気持ちを、アジアやヨーロッパの人々が少しずつ解り始めているのだと思います。日本に来て、化粧品、電化製品、薬、更にはお菓子を買って帰っていく外国人が目立ちましたが、最近では、桜を見たり、温泉に入ったり、歌舞伎を観たり、お茶の体験をしたりしています。  また、お茶は人との距離を畳の目数で数えます。自分の陣地を増やせば、相手の陣地が減るからです。扇子を出して置くのは、結界を表します。私はここからあなたの方には出て行きません、という意志表示です。このような暗黙の約束があり、先ほどの「おもてなしの心」の話に繋がります。私はあなたの領域を侵しません、ということです。

学生:高校生の頃、池坊で華道を習っており、展覧会も何度か見に行きました。そこで長年されているプロの方とそうでない方のスケールが全然違っていたのを覚えています。以前茶道もやっていましたが、茶道の方がルールやステップがとても細かいイメージで、華道は割と自由にやっていいイメージがあるのですが、華道の「おもてなしの心」というのは、その比較的自由なステップにもあるのでしょうか。

矢嶋:華道における「おもてなしの心」を表すものは、「左右非対称」でしょう。ヨーロッパの花は基本的に左右対称です。日本の花、特に池坊の場合は、左右非対称です。手法的な話ですが、池坊では多くの場合、一年通して咲いている花と、その季節しか咲かない花を組み合わせます。その季節の花だけを使うのではないのです。それは一年ずっと咲いている花と、今しか咲かない花を対比させるからです。それによって、続く時間と続かない時間を表現します。先ほど旬の食を頂く、という話の中で、ご飯、パン、麺類は一年中ないと困る、という話をしました。しかし鰹や空豆は食せない季節があってもいい、それが楽しみでしょう、と。華道は見てもらうために人を意識はしますが、花と対話するわけです。一方でお茶の場合、お茶と対話するのではありません。お茶を通して飲む相手と対話をするのです。花より人を相手にする方が遥かに面倒ではないでしょうか。これが茶道の細かいルールに繋がっていると思います。

学生:茶道の花と華道の花は全然違います。茶道は「一輪挿し」ですが、これは、花よりも人との対話を大事にしている、ということなのでしょうか。

矢嶋:少し似た話ですが、「能」がありますよね。能舞台には必ず松があります。また、「橋掛り」という橋には竹が植えられています。松、竹ときて、梅がないのです。何故でしょうか。諸説ありますが、主に二つの解釈があります。松と竹があって梅がないのは、一つに梅が能役者という説と、二つ目にお客様が梅という説です。茶道において主人公はお客様であり、花は添えるものです。茶道の席でもし立花のようなものがあれば、気持ちがそちらにいってしまいます。その為、花は一輪でいい、極端に言えば椿が落ちても動揺しなくていいのです。華道において、人へのおもてなしはもちろんですが、どちらかといえば「花」が中心です。お茶は、お茶よりもお茶を通して自分が向かい合っている「人」が中心です。その違いではないでしょうか。

学生:以前、日本文化には間を大切にする風習がある、ことを本で読みました。華道では、花と花との空間にその間というものがあって、茶道では時間的な間を楽しむというものがあると思うのですが、きもの文化の中で、間を楽しむということはどういう部分にあるのでしょうか。

矢嶋:私が今、締めているこの帯の下には伊達締めを結んでいます。印はありませんが、結ぶ時このように真ん中あたりを持ちます。そこを持ち腰骨で留めて、まさに「間」を取り、腰骨に沿って回します。そしてグッと締めて腰で留めます。ベルトをする時はこのようなことは考えません。これが全て「間」です。この「間」がとれないと、後でクシャクシャになります。帯は、手先と呼ばれる部分を2つに折って、後ろに持っていきます。そして後ろの手の感覚で、手先の長さを調節しながら、後は伊達締めの上に帯を合わせていきます。この時にどのくらいの強さで締めるかによっても違います。これも全部「間合い」です。それでこのような形に出来上がります。ここで折り返して、ベルトのように印があるわけではないので、後ろで見えませんが、このくらいだろう、と「間合い」を計って、締め上がったカタチを想定して締める。そうすると今のカタチに仕上がります。この帯を次に締めたらまた違うものになります。これがきものにおける「間」です。
 きものを着る、の話の中で「気持ちが充実していないと、きものは上手く着られない」と言いました。特に帯を締める瞬間が顕著です。私は毎日とは言いませんが何十年もきものを着ています。しかし、気持ちが充実していないと帯が一回で決まりません。気持ちが乱れていると、2、3回締め直さなければなりません。帯を1回締めたら1日中解けませんから、朝締めたら夜ほどくまでこのままです。「気持ちが充実していないと、きものは上手く着られない」というのは「間」です。今日の自分の間の取り方によって変わってきます。日本語に「間抜け」という言葉があります。間を取れないと「間抜け」になってしまいますが、間を取りすぎると「間延び」してしまいます。その適度な間をどう取るか、がとても大事です。昨今西欧デザインでも空間を大事にするようになってきましたね。適度な間を取る、という点で、相通じるものがあるのだと思います。

(以上、講義内容の一部抜粋)