「あかりの力~和の照明、洋の照明~」−1

日本を代表する世界的照明デザイナー、石井幹子氏。東京タワーやレインボーブリッジ、平城宮跡など日本国内はもちろん、ドイツのブランデンブルク門やサウジアラビア迎賓館まで世界中を照らし続けてきた石井氏が、仕事の原点からこれまでの作品、そして「あかり」に対する考え方まで、たっぷりとお話しくださいました。(2017年3月)
 


東京タワー50周年記念ライトアップ 〈ダイヤモンドヴェール〉

矢嶋:本日は日本だけでなく世界中の照明を手掛けておられる石井幹子先生に、「和の照明と洋の照明」というテーマでお話しいただきたいと思います。
  最初に先生が今の仕事に入られた原点ですが、フィンランド在住の、北欧を代表する照明デザイナー、リーサ・ヨハンソン・パッペさんに手紙を書かれたんですよね。今の時代でもなかなかできない、大変勇気のある行動だと思ったのですが。

石井:全く情報もなかったですし、手段といってもそれくらいしか思いつかなかったので。本当はスカラシップ(奨学金)を取って北欧に行きたいと思っていたのですが、フィンランドにはそのような制度は全くありませんでした。当時海外への持ち出しの上限が500ドル(当時の為替レートで約18万円)だったので、どんなに切り詰めて生活しても3~4ヶ月がやっと。向こうで働きながらでなければ暮らせない、どうしようと考えた時に、リーサ先生に手紙を書いて手作りの自分の作品集と一緒に送りました。

矢嶋:その時の先生の作品というのは、四角いペンダントライトですか?

石井:そうですね。当時1962年でしょうか、私は渡辺力さんという有名なプロダクトデザイナーの事務所で、グラフィックや家具のデザイン、ロゴマークの制作をしていました。若く入りたてのデザイナーの卵の私にも、どんどん仕事をさせてくれて。

矢嶋:高度成長期に入った時期と同じくらいですね。GNPが伸び、何年かで所得を倍増させようと言っていた頃です。

石井:しかもデザインなんて言葉もまだ目新しくて、デザイナーという人に頼めば何か面白いものをつくってくれるんじゃないか、という機運があって。


矢嶋:魔法使いみたいな(笑)。

石井:本当にそんな感じでした(笑)。どんどん仕事が入ってきて。今みたいに週休2日ではありませんでしたから、残業して遅くまで働いたり、土曜日も仕事をしたり、色んなものをやらせていただきました。自分のデザインが実際にモノになるだけで、もう嬉しくて。そこでの約3年分の作品を全部集めて作品集をつくって、リーサ先生に「是非あなたのアシスタントとして雇ってください」と手紙を書いたのです。

矢嶋:返事はすぐ来たのですか?

石井:なかなか来なかったですね。1ヶ月半後くらいでした。

矢嶋:ですが当時の手紙の往復期間を考えれば結構早いですよね。返事には何と?




ペンダントライト

 

石井:「あなたを雇います。時給はいくら、この手紙を持ってフィンランド大使館に行ってワーキングパーミッション(労働許可申請)を取得してください」と、そこまで丁寧に書いてあって。その通りにフィンランド大使館に行って、その手紙を見せたら係員があっさり許可印を押してくれました。
  その後、当時はお金もなかったので、最も安いルートでフィンランドへ(笑)。まず横浜から船で出発して、それからシベリア鉄道で1日半くらい汽車に乗って、ハバロフスクからモスクワまで飛行機で。モスクワからフィンランドのヘルシンキまでは3日間くらいかかりました。当時のソ連からフィンランド領に入りましたら、綺麗な花が植えられていて、夢のように美しいと思いましたね。私が最初にフィンランドに行って本当に良かったと思うのは、ちょうどストックマンデパートという高島屋のような大きな百貨店の中にオフィスがあったのですが、当時でも女性が当たり前に働いていたことです。

 
矢嶋:リーサ先生もそこでお仕事をされていたんですよね。

石井:その頃先生は、ストックマン・オルノ社という照明器具メーカーのチーフデザイナーでした。ちょうど60歳くらいで、皆さんがコワイ!と恐れをなしていた大変厳しい方でしたが、立派な方でしたね。教育者的だったとも思います。先生にとって私が「遥々自分を慕って遠く日本から来た女の子」だったというのもあり、生徒に接するようにと言いますか、まさに子どもを躾けるように随分色々なことを細かく注意されたりして。厳しかったけれど、大変よくしていただき、本当に感謝しています。

矢嶋:フィンランドでは様々なことをお感じになられたと思いますが、先生の本を拝読していて「光は浴びるもの」、という言葉が印象的でした。「北欧の光は横からだ」と仰っているでしょう?私も北欧へ行ったことがあるのでおおよその雰囲気はわかるのですが、その「光を浴びる」という感覚、身体で光を感じることについてご説明いただけますか。

石井:よくリーサ先生は「手のひらで光を浴びなさい」と仰いました。「見る」のではなく「浴びる」とは、その場に行かないと浴びられない。「浴びる」というのは極めて身体的な感覚なのだから、その場に行って本当にモノを感じなさい、と。いわゆる照明というと非常に数学的な、計算値で何ルックスという世界だったのが、照明デザインはもっと感覚的なものだと教わりました。

矢嶋:北欧の人は私達よりも太陽を求めますよね。
石井:あちらは本当に秋が早く訪れて、10月終わりくらいからすぐ冬になってしまいます。刻々と日は短くなって、12月になると10時頃に朝になり、14時くらいにはもう夕方に。日はもちろん太陽も出ない世界でしたから、キャンドルの消費量がフィンランドは世界一なんです。クリスマスの時期にお家に呼ばれていくと部屋の至る所にキャンドルがあって、何とも美しかった。それから庭にもアイスキャンドルを置いたりします。バケツに水を入れて一晩置くと周りが凍るんですが、中の水捨ててそこにキャンドルを入れて火を灯すんです。氷の大きなコップのような形ですね。

矢嶋:なるほど、氷の中に光を入れるわけですね。

石井:それを「おもてなしのあかり」として入口に置いて楽しみます。他にも忘れられないのは、12月6日のフィンランドの独立記念日です。その日は町中の窓にキャンドルが灯って、とても暖かく綺麗な光景が見られるんです。しかし1990年代に訪れた時はそれが全部電気になっていまして…、ちょっとガッカリしましたね。


矢嶋:先生の照明デザイナーとしての原点がフィンランドだったのは、後から考えるととても良かったのでは?

石井:そうですね。照明だけではなく、女性が普通に働いていること、女性の地位が高かったことも私にとっては良い環境でした。

矢嶋:先生が日本に帰ってきてから、女性の先駆けであるがゆえの「こんな若い女性にできるか」といった批判やオイルショック時の二重三重の壁を乗り越えられたのは、女性が活躍できる社会で働いた経験があったからでしょう。

石井:私もそう思います。その次に行ったドイツの会社でも、たくさん仕事をさせてもらいました。

矢嶋:先生が最初、ドイツ語を全く喋れない状態で行かれた、という話には驚きました。

石井:雇った方も雇った方ですよね(笑)。私は浅はかにも英語で通じるだろうと、何も考えていませんでした。しかしいざ行ってみると「ダンケ・シェーン(ありがとう)」くらいしか言えず、仕事ではひたすら手だけを動かしていました。でもまさに泳げない人が水の中に入るようなもので、3ヶ月経つと結構ドイツ語がわかるようになって。正直フィンランド語は全く覚えていないですが、ドイツ語は今でも行けばタクシーの運転手と喧嘩くらいはできますね(笑)。

矢嶋:ドイツ語が上手く喋れなかったことで、逆に無駄口を叩かずに熱心に仕事をする女性、という評価が得られたわけですね(笑)。

石井:喋れない分だけたくさん仕事をしないといけないと思っていて。当時は全部手で描きましたから、ドイツ人の倍の速さでやろう、と意気込んで仕事はとても速かったんですよ。上司がいなくなるとすぐ雑談する人もいる中で、社長が「モトコはおしゃべりじゃないし、仕事も速い」といたく喜んでくれました。良い仕事をたくさんやらせてもらって、その後日本に帰ってからの建築空間の照明やデザインをいかにビジネスにしていくか、事務所の運営方法や生産性の上げ方など、ドイツで全て覚えました。

矢嶋:この間、結城紬の産地に行って生産性の話になりました。そこで結城産地の若者が「日本の生産性は何で低いと言われるんでしょうか」と尋ねてきたので、「労働時間が長すぎる。特にヨーロッパと比べたら1.5倍、感覚的には倍くらい違う」と答えました。ヨーロッパの人は短期間のうちにすぐ仕事をするし、夏休みは1か月のバカンスなんて当たり前で、それでも仕事に差し障りがない。でも日本で1ヶ月休んだら周りが地獄を見るよね、なんて話をしたんですよ。その工夫ですよね。


石井:そうですね。その当時は1960年代の終わりでしたが、全ての書類や図面にきちっと番号がふられ、図面台帳がありました。実は経営者にしてみれば、これによっていつでも雇用を切れるんです。驚いたのは少しドイツの景気が悪くなった時で、社長が何て言ったと思います?「これで人が入れ替えられる」って!態度が悪かった人やあまり仕事ができなかった人をパッと辞めさせて、もっと良い人が入ってきました。なるほど、バカンスをとったり人を交代させたりする為にはそういう仕組みがきちんと揃っていなければならないのだな、と思いましたね。またドイツの仕事のスタイルは朝が早く、朝8時から始まります。午前中に必死で仕事をして、お昼が済んだら後は片づけをして終わらせる、というリズムでしたね。

矢嶋:住んだことはないですが、当時同級生たちがドイツにいて、私も2週間くらい行ったことがあります。ルクセンブルクの車のラッシュアワーは、朝6時から始まるんです。社長は7時には来て、その代わり16時には終わるそうです。

石井:習慣だけではなく食べ物とか色んなものが関係していると思いますが、皆さん徹底的に朝型ですね。これはアメリカの話で感心したのですが、忙しくなると残業しないでうんと朝早く出てくるんですよ。9時から始まるのが8時から、もっと忙しい時は7時からだったり。


矢嶋:経営者は本当に朝が早いですよね。私も影響を受けて、一時期前の会社で「役員は7時から始業だ」と言って朝一番から役員会議をやっていました(笑)。
 こちらに帰ってこられて、日本社会の様々な問題があったと思います。特にオイルショックの時はもう狂乱物価でした。例えばきものでも、値段が上がるからと白生地だけを買っていくんです。オイルショックが1973年で、そこから3~4年は何でも売れました。石鹸が1個200円から400円になる。一方洋服は、1977年頃から後のユニクロなど新しいアパレル会社が出始めるんですね。この1977年を境目に洋服は値段を下げて数を売り始めて、結果インフレからデフレに変わった。ところがきものは調子に乗ってずっと値段を上げ続けたから数が減ったんですよ。その転換期がちょうど先生が逆境と仰る時期と同じなんです。今はそれから40年ですが、先生がオイルショックという逆境について書いておられるのには驚きました。あまりにもぴったりで。


石井:あの当時は、ドイツの会社にはいつでも帰ってこいと言われていましたし、ワーキングパーミッションもまだあったので、日本で仕事が無くなったらまたヨーロッパに行こうかなと思っていました。その時に国際電報が来て、10日以内に今までの仕事をまとめてアメリカに打ち合わせに来い、と言われたんです。
 それがワールド・トレード・センターを設計したミノル・ヤマサキ氏で、日系の大変高名な建築家でした。その時は作品をスライドにしたものを40枚ほど持ってデトロイトまで行きまして。「すぐに作品を見せてくれ」と言うのでスライドで見せたら、「わかった、これから大きなプロジェクトがあるから参加しろ」と言われたんです。
 隣の大会議室に行ったら20人くらいの男性が図面を広げていました。それがサウジアラビアの迎賓館のお仕事で、その時120台くらいのシャンデリアをデザインしました。天井が26mほどあって、謁見の間のような所でしたね。
 ミノル・ヤマサキ事務所からは、日本にいても仕事が無ければ、もうアメリカに来いと言われました(笑)。その決心がつかなかったのは、日本の照明はこれから良くなるという予感があったからです。




サウジアラビア迎賓館のシャンデリア