「着る文化論」

これは2016年4月8日、新入社員研修(89名)で行われた、(株)やまと 会長 矢嶋孝敏の講義を逐語訳したものです。(於:国立オリンピック記念青少年総合センター)

 この写真は10年程前に当時の銀座資生堂パーラーの前でショーウィンドウと同じ色のきものをスタイリングし、雑誌「装苑」に掲載されたものです。テキスタイルデザインはミナペルホネンの皆川明さん、スタイリングは大森伃佑子さん、着付けは大久保信子さんが手がけました。
 今日は、普段あまりにも日常的すぎて意識することの少ない「着る」という行為が、きものに於いては、とても「意識的なこと」である、という話をしたいと思います。
 きものを「着る」という文化は、「創る」文化、「売る」文化が支えているとも解釈できます。



 しかし、まず始めに「着る」という“コト”があるからきものがある、とも捉えられます。では、その「着る」文化とは何なのか、“きもの” “和服”を着るということは同じ服でも洋服を着ることとどのように違うのか、ということから始めましょう。



衣・食・住で「衣」だけは人間だけ



 「衣・食・住」という言葉があります。「食」は人間に限らず動物には皆 必要なことです。全ての動物は生きるために「食」が不可欠。「住」も同じです。アリには精巧なアリの巣、ビーバーには水中の家、鳥にも巣があり、クマにも冬眠するトコロ、というように、全ての動物には食べモノは元々あり、住むトコロも、在ったり作ったりして、必要なものです。ところが、あまり気づかないのですが、衣食住の「衣」だけは動物にはありません。「着る」という行為は人間だけの営みで、元々「服」というものが食べモノのように存在していた訳ではないのです。駒沢公園等でペットとして飼われている犬が服を着ていることを見かけることはよくありますが、それは人間が着させているだけで、犬たちが着たいと言った訳ではないでしょう。つまり、人間だけが「着る」という意思(WILL)を持ち、和服や洋服を生み出してきた、と言えるのです。言うなれば「着る」という行為そのものが、極めて人間的な意思表現なのです。ところが、このごく基本的なことを洋服は忘れてしまっています。何故か?。洋服はその目標として、「着ることを意識しない」文明的で楽な方向へ向かっていったからです。後の手入れなども「考えなくても良い」手軽なものへと向かっていったからです。その代表を挙げるならば デニムにTシャツ。デニムも随分進化し、ストーンウォッシュ、ダメージデニム、シャドウウイスカーなど、今は普通に在ります。私が中高生の頃は12オンスのデニムを買ってきて、軽石で擦って古くしていました。今は何でも始めから加工されているので楽なのです。最近は中高年にストレッチのデニムが浸透していますね。
 そういう文明的に楽な方向に行けば行くほど「着る」ことの本来の意味がわからなくなってしまうのではないでしょうか。食べるということは、まだ意識されています。カロリーメイトとウィダーだけで過ごしている人なんていません。しかし「着る」ということに関しては、意識されない“楽な方向”に向かっています。本来「着る」ということは、とても人間的な意思のある行為なのです。
 この考え方に立てば、「どうでもいい着方」というのは人間として恥ずかしいことなのではないでしょうか。




きもののカタ = はおる・巻き付ける・むすぶ



 次に服の“型”について考えてみましょう。洋服の基本は「かぶる」もの、それ自体でカタチになるものです。Tシャツやセーター、スエットシャツなどは、それ自体でカタチができるから、考えるまでもなく誰が着ても同じになります。お腹が出ている人はお腹が出ているなりに、痩せている人は痩せているなりに、その人のカタチになるわけです。
 それに対し、きものの基本は、「はおる」と「あわせる」です。特に「はおる」は、衣紋を抜くか抜かないか、というようにその人なりの違いがかなりあります。そして何よりもの特徴は「巻き付ける」ことです。というより、体の前でかきあわせるように「あわせる」と言った方がいいでしょう。先ほど冒頭で紹介した写真は、大久保信子さんによる江戸前の着付けで、意識的に褄先を上げて着付けています。洋服ではこうはなりません。モデルにスカートを着せても同じようにしかなりません。こういう「褄先を上げた着方」は、きものが「巻き付ける=(前を)あわせる」ものだから出来るのです。きものというのは、右手で下前(右側)の衿先(衿の一番下の部分)を持ち、左手で上前(左側)の衿先を持って自分の身体にかき合わせるようにして巻き付けます。しかも背中心は真っ直ぐに合わせなくてはいけません。そうやってカタチを自分でつくっていくのです。ちょっと無理な言い方をすればラッピングと同じ。ラッピングには技術を要します。四角い箱のラッピングはまだ容易ですが、人間の身体は全て曲線、四角いところなどありません。硬いところと柔らかいところもあります。しかも日によって変わります。そうした人間の身体に合わせて、右手で下前を持ち、左手で上前を持って、自分の前で重ね合わせてカタチをつくっていくということは、ある意味では高度なラッピングと言えます。しかもそれを「むすぶ」わけです。日本のラッピングの特徴は紐です。最近ではロゴの入ったテープやシールを用いていますが、お茶の茶碗の入っている箱や、重箱なども紐を用いています。その結び方には様々な流派もあるのです。ただ結べばいいというものではありません。


 DOUBLE MAISONのディレクションを手がける大森伃佑子さんがこのように言っていました。「今の若い人たちはリボンが綺麗に結べない」。雑誌「装苑」2016年4月号では表紙に加え、中の特集でも大森伃佑子さんがリボンを結んでいます。全てご自分で。リボンはただ結べばいいというものではなくて、そのリボンをどれだけ可愛く結べるかということが命なのです。だから、この「はおる」「巻き付ける」「むすぶ」ということは、ものすごく芸術的なことなのです。洋服を着る時には考えもしませんよね。
 きものは自分の身体に「巻き付けた」ものを、帯という紐で自由に「むすぶ」。この行為は、創造そのもので個々に違うものなのです。帯も、うまく結べる時もあれば、そうでない時もあります。ただ結べば良い…であればいいけど、どれだけ美しく結ぶかと考えると、私も10回に1回くらいはやり直すことがあります。一方、ボタンやファスナーは誰がとめても同じです。洋服ときものはそれくらい違うのです。洋服は文明だから、誰が着ても同じ結果を出すように作られています。カップヌードルのように。カップヌードルはお湯を入れて3分たてば誰が作っても同じ味になります。一方、お茶のお点前は、お茶の種類、抹茶・煎茶・ほうじ茶・玄米茶などによっても勿論ですが、同じお茶でも、その日の気温によって点(た)てる温度を変えたり、蒸しの時間を調整したり、とそれぞれに異なります。そういう意味で「着方でカタチをつくる」きものは、お茶にも通ずるところがあります。
 洋服は、スカートを例に挙げると、フレア、タイト、マキシ、ミニの様に、いくつもの「型」があります。しかし、その型毎には、カタチは、ひとつに収束されます。一方、きものは、着物という「型」こそ男女の差は多少あるものの、洋服に比べれば、「一つの型」と言っても良いと思います。しかし、それを着た時のカタチは「着る人ごと」と言っていいほど、多様なのです。
 もう少しわかりやすく説明しましょう。帯ひとつとっても、「結びの型」の違いだけでなく、その時々の「結び方」でも変わってきます。


 これは、男の角帯の「貝の口」という「結びの型」です。私は江戸っ子で、町人ですので、いちばんこの「貝の口」で結びます。他にも「一文字」や、武家がしていた「片ばさみ」、虚無僧の「虚無僧結び」など、職業・階層ごとに様々な結びの型がありました。
 更に、その型とは別に、「結び方」というものもあり、同じ「貝の口」でも、その時々によって、その結び方が変わるのです。それでは、やってみましょう。
 これは、前よりも「手先が長く」なっていますね。このように「着方でカタチをつくる」ということは、同じ人でも二度と同じ着方ができないということでもあります。今、私が着ている着方は今日現在の着方であって、明日は少し違ってくる筈です。印をつけて着ている訳ではありませんから。洋服のベルトというのはその逆で、穴が決まっている為いつでも同じになります。ちょっと太ったりすると分かりますよね。
 また、私は帯を前で結んで後ろに回す着方はしません。手の感覚を頼りに後ろで結びます。帯の素材によっても力加減が異なります。今締めているのは、ミンサーの帯だから柔らかいので、力強く締めます。しかし、博多の綴れ帯の場合や、革の帯などの場合は、力加減を変えています。
 このように、「はおる」「巻き付ける」「むすぶ」というのは、とても日本的な文化なのです。




きものは「着る」ことによって、はじめてカタチが創られる



 着る前からカタチが出来ている洋服との違いが、とてもハッキリ感じられるのが、女子水泳選手のスイムスーツです。着るのに2人掛かりで30分くらいかかるそうです。0.1秒でも早くする為に水の抵抗をなくす設計がされており、そのカタチの中に人が入るものです。いわば着る前からカタチが出来ているわけです。服のカタチに自分の身体を合わせにいっているのです。洋服ときものの違いは、きものというモノが主体ではなく、「着る」人が主体であるという点です。直線裁ち、直線縫い、平面仕立てのきものは、中に人が入って、「着る」ことで、着るたびに初めて、新しいカタチ・スタイルが出来あがります。いうならば、人間が最も“主体的なスタイル”を創るのがきものの最大の特徴。気持ちが充実していないと、きものはうまく着られません。
 澤地久枝さんは昔からよくきものをお召しになる着慣れた方ですが、そのような方でも「年に何回かきものが着れない日があるの」とおっしゃっていました。きものは大げさに言えば、しっかりした意志、そこまで言わなくても心身の調子が整っていないと上手く着られません。私自身も気持ちが定っていないと、何回も着付けをやり直すことがあります。どうしても前が合わない、帯が結べない、羽織の衿がキマらないなど。Tシャツとジーンズはそうではありません。気持ちがどうであれ、ほぼ同じ結果になります。それを今から約50年前に寺井美奈子さんは名著「ひとつの日本文化論」の中で次のように書かれています。


 

「直線のきものを曲線だらけの身体にあわせて着るという二律背反が生む美。」
「直線を曲線の方に引き寄せるのが着こなし。」

  ここで、はじめに紹介した写真の着方をもう一度見てみましょう。直線のきものを曲線の身体に巻き付けるので、その巻き付け方によって、この褄先を意識的に上げた個性ある着方が生まれてきています。この着せ方は普通の人には出来ません。小石川生まれで、実家が日本橋の呉服屋さんだった大久保信子さんだからこそ、このスタイルが出来るのです。

 

「一人ひとりの人間が無意識とはいえ、前を合わせて腰で紐を結ぶ
ことで、個体に密着してきものを〈着る〉ことから〈型をつくる〉という文化を生み出す。」

 

  「型(カタ)」というものは決まっています。そこに「血(チ)」=意志・気持ちを入れることによって、はじめて自分の「カタチ」になります。きものは「着る」ことによって「カタチ」となり、着る本人自身の着方になるのです。



「着用者自身一人ひとりが手をくわえなければ〈着る〉ことができない
 きものの〈着方〉こそ、日本人の心と文化を生み出す根源であった。」


  これはお茶も同じです。お茶はいれる人によって味が違うし、同じ人でも上手くいく時とそうでない時があります。自分で自分のカタチをつくるというのは、ある意味で手づくりの料理と同じで、それがきものの着方であり、お茶のいれかたなのです。それは、洋服にはない特徴であることは分かるかと思います。だから「面白い!」のではないでしょうか。

 

 

「着る主体は着る人」であるきもの

 「着る主体は着る人」である、これが最大のきものの特徴です。きものはもともとのカタチがないので、畳んでしまえば、みな同じになってしまいます。洋服は、もともとのカタチがあるので、大きい人なのか、小さい人なのか分かります。きものは脱いだ瞬間にそのカタチが消えてしまいます。だから「着るたび」に新しいスタイルが生まれる、と言っても良いと思うのです。「着るたび」に新鮮さがある素晴らしい衣服がきものなのです。
 お茶の世界に「一期一会」という言葉があります。一期一会の「今日このときしかない」というのは、「1回毎にお茶が違う」ということなのです。カップヌードルはいつ作っても同じです。しかしお茶は違います。だから一期一会なのです。きものも同じなのです。
 また、きものにはカタチがないから「譲る」という行為が可能です。洋服にはカタチがあるから、譲ってもサイズが合わなければ着られません。スタイルを考えれば洋服は譲りにくいものです。スカートを例に挙げればショートからロング、タイトからフレアというように色々なカタがあります。洋服は型がいろいろ違うけど、着る人を問わずカタチが皆同じになりやすい。しかし、きものには、そうしたカタチはありません。きものは、皆 同じ型ですが、着る人が変わればカタチが全部違ってきます。だから、人に「譲れる」のです。きものには、「見る」、「着る」、「知る」、楽しみに続く、第4の楽しみ「譲る」があるのです。

 

着方は変化するが基本はちゃんとある

 着方は変化しますが、基本はちゃんとあります。フォーマルとカジュアルだけではなく、トラッドとアバンギャルドという着方の違いもあります。アバン・ギャルドは、前衛、つまり一番最先端です。しかし「型破り」というアバンギャルドな着方が出来るのは、基本である「型」がキチンとわかってからです。型破りというのは「型」があるから破れるものであって、最初の型がわかっていないならば、ただの「型なし」になってしまいます。だからまず最初の「型」をしっかり覚えて欲しいと思います。その上で5年経ったら5年、10年経ったら10年、30年経ったら30年経ったなりの着方がそれなりに出来るようになります。
 92歳になられる茶道家裏千家前家元 千玄室さんの著書に「90歳には90歳のお茶がある」とありました。お茶もきものも同じように終わりのないものだと思います。
 「型(カタ)」に「血(チ)」=気持ちを入れると、「カタチ」=着姿になる。これが自分のスタイル。自分のスタイルを確立するには何年か掛かるでしょう。スポーツも同じです。野球でも、テニスでも、ゴルフでも。スポーツ選手も自分のカタチをつくるまで何年も要します。そして最初は基本の型から入ります。決して我流ではありません。
 きものの色柄は確かに作家がつくるもの。しかし、スタイルは100%「着る」人が創るものなのです。ですから、まず基本の着方を覚えてください。そうすれば、無理やりではなく自然と色々な着方ができるようになります。

 

結語 : きものは心意気で着るものです。

 作家の幸田文さんが書いた「きもの帖」に、このような言葉があります。「きものは心意気で着るものです」。これは、ただのカラ元気や気合いというものではありません。きもの着るのは大変だわ…といわれることがありますよね。いいのです、大変で。「おもてなし」というのはそういうものだからです。「暁の茶事」などは、本当に大変です。冬の朝4時から茶事をやるのに、それに合わせて炭をおこしたり、徹夜で準備をして迎えるわけです。そうやって冬の朝にしんしんと雪が降っている中、シュンシュンという釜から上がる松籟の音を愉しむのです。それが「おもてなし」というものです。5文字の「お・も・て・な・し」で片づけられるものではありません。
 考えてみれば、きものを着るというのは、「自分のために着る」が半分くらい、「人のために着る」ことがもう半分あります。夏の絽や紗のきものなどは、着ている本人はそんなに涼しくないけど、周囲の見ている人にはとても涼やかに映ります。そういう意味でも、きものというものは「おもてなし」と言えるものだと思います。皆さんが最初に服を着るということを意識したのはおそらく3歳くらいの頃ではないでしょうか。それから20年間、ずっと洋服に慣れ親しんできたから、逆に「着る」ということの意味を忘れてしまっているかと思います。
 もう一度、きものの「着る」という意味を、洋服を着るということも含めて考えて頂きたいと思います。「着る」ということはとても大事なことなのです。だからきものを着るのであれば、前の日から必要であればアイロンをかけて吊るしてセットしておくし、お茶で言えば「雨に備えよ」の如く、雨が降るようであれば、足袋の替えを用意しておく。それは、濡れた足袋で人前に出るのは失礼だから。そうした全ての備えをして、相手が気持ち良くなるように着ることが「きものを着る」という「おもてなし」の文化だと思うのです。

 華も同じです。華道の起源である池坊は仏様の前に捧げる仏前供花から始まりました。この世の私達が仏様という届かないところに花を活ける。そして、その花を同じこの世の者が愛(め)でる。それもお茶と同じおもてなしの心ではないでしょうか。
 特に次期家元の池坊専好さんの活ける花には、お茶と同じ一期一会の心を感じます。今日在る花は今日だけの花であり、それをごらんになるあなたも、今日だけのあなたである、という想いです。朽ちてゆく中に生命の流れと それを受け容れていく気持ち、いわば生=死の如き時間の受容と、だからこそ今を大切にせんとする心がそこにはあると思うのです。
 この点については、また次回勉強しましょう。今日はここまで、と致します。